高野山町石道


高野山町石道の地図- 高野山名所図会



町石道とは

高野山町石道(こうやさんちょういしみち)は、紀ノ川沿いの九度山・慈尊院から高野山上の壇場伽藍・根本大塔、そして奥の院の弘法大師御廟を結ぶ、全長26キロメートルの参詣道です。

空海による高野山開創の時に設けられ、以来1200年にわたって高野山の表参道として歴史を刻んできました。

この参道では空海の時代、高野山に行く道標として、およそ109メートルごとに木製の卒塔婆が建てられました。109メートルというのは、奈良時代に成立した「条里制(じょうりせい)」の単位、1町にあたります。

1町とは、大股で歩いた場合の120歩(条里制の1町は60歩ですが、この場合の1歩とは右足と左足をそれぞれ踏み出した距離にあたります)の長さです。水田の区画整理などで使われていたので、当時の人々にとっては感覚的に最も分かりやすい単位でした。

120歩(山道だと歩幅が狭くなるので、200歩ぐらいかも知れません)ごとに道標があれば、道を間違えたらすぐに気付くので、戻って歩きなおすのも大変ではありません。空海は当時から、高野山が日本を代表する聖地の一つとなり、修行僧のみならず多くの庶民が参詣に訪れることを想定していたのかも知れません。

卒塔婆は後に石柱となり、1町ごとに建てられていることから「町石(ちょういし)」または「町石卒塔婆(ちょうせきそとば)」と呼ばれました。これが「町石道」の名前の由来です。

町石の建立と元寇

木製だった卒塔婆がすべて石柱に建て替えられたのは、鎌倉時代中期のことです。その大整備に大きく関わったのは、当時、幕府の実権者だった安達泰盛でした。

泰盛の祖父、安達景盛は出家して高野山の僧侶となり、金剛三昧院を建立した人で、泰盛自身も高野山の檀越(だんおつ、後援者)でした。この頃は蒙古襲来が予想された時期であり、敵国を退散させるための祈祷の意味もこめられていました。

町石建立は文永2年(1265年)に計画され、20年後の弘安8年(1285年)に完成しました。2回に渡る元寇が撃退されたのは、建立が進められている最中のことです(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)。

町石道には現在216基の町石が立っていますが、そのうち150基は鎌倉時代の建立当時のものです。

町石道の歩き方

高野山町石道のスタート地点は、南海高野線の九度山駅から徒歩30分ほどの所にある慈尊院です。慈尊院は空海が高野山開創の際、その表玄関および寺務所として創建した寺院で、女人禁制の高野山には入れなかった空海の母も滞在しました。

九度山駅から高野山上の入り口・大門まで一気に歩くと、ペースや休憩時間によりますが7~8時間ほどかかります。

町石道の近くには、高野山開創にも深く関わった紀伊国一宮・丹生都比売神社もあります。ここに寄っていく場合はいったん坂道を降りてまた登ることになるので、プラス30分は見ておく必要があります。

高野山町石道は尾根伝いの道が中心ですが、ほぼ並行している谷間には南海高野線が通っています。町石道から上古沢駅や紀伊細川駅へ降りていく道もあるので、全行程を歩かなくても、途中で切り上げたり、途中から歩いたり、2回に分けて歩くことも可能です。

その場合、見学時間や休憩時間を考慮しない目安としては、九度山駅から上古沢駅までが3時間半(丹生都比売神社に寄ると4時間半)、上古沢駅から大門までが4時間(二ツ鳥居を経由すると5時間半)です。


サイトマップ