金堂周辺(壇場伽藍)


金堂(壇場伽藍)の地図- 高野山名所図会


中門

壇場伽藍の入り口にはかつて、五間二階の楼門・中門(ちゅうもん)が建っていて、中には持国天と毘沙門天の像が祀られていました。

江戸時代末期の天保14年(1843年)に焼失し、礎石を残すのみとなっていましたが、2015年の高野山開創1200年に合わせて再建されることになり、工事が行われています(2013年現在)。

中門(壇場伽藍)の写真 - 高野山名所図会



作業の様子は、金剛峯寺の南にある「中門作業館」で見ることができます。

金堂

中門のすぐ奥に建つ大きな建物は、昭和7年(1932年)に再建された金堂です。

金堂(壇場伽藍)の写真 - 高野山名所図会



金堂は平安時代から高野山の総本堂であり、高野山開創時は講堂と呼ばれていました。

平安時代末期の保元元年(1156年、「保元の乱」が起きた年)には、平清盛が巨大な両部曼荼羅を金堂に寄進しました。

「平家物語」には、平清盛が自らの頭の血を使って胎蔵曼荼羅の中尊像を描かせたと記されています。そのため、この曼荼羅は「血曼荼羅」として知られています。

この「血曼荼羅」は重要文化財で、実物は高野山霊宝館に収蔵されています。金堂には、その模写が展示されています。

金堂(壇場伽藍)の写真 - 高野山名所図会



現在の建物は7度目の再建ですが、建築と本尊、壁画などに近代日本の最高水準の技が凝縮されています。

金堂の建築は、武田五一(たけだごいち、1872-1938年)が設計した鉄骨鉄筋コンクリート構造の入母屋造(いりもやづくり)です。武田五一はアールヌーボーなどのデザインを日本に紹介した、近代日本を代表する建築家の一人です。国会議事堂の設計や法隆寺、宇治平等院の修復に関わりました。

入母屋造とは、屋根が二段になっている建築様式のこと。上段が切妻造(きりづまづくり)、下段が寄棟造(よせむねづくり)です。

切妻造の屋根(切妻屋根)は、傾斜が二方向にしかなく、本を伏せたような形をしています。「妻(屋根の棟と直角な面)」を切断したように見えることから切妻造といい、換気に優れています。日本では仏教渡来以前からよく使われてきた様式で、そのため神社の本殿もほとんどは切妻造です。

寄棟造の屋根は、四方向に傾斜しています。寄棟、または四注(しちゅう)ともいい、もともとは東日本に多かったことから「東屋」(あずまや)とも呼ばれました。雨の流れが良く、日本では切妻造に次いで多い様式です。

切妻造と寄棟造を組み合わせた入母屋造は風格がありますが、複雑かつ重量があるため、しっかりした骨組みや雨漏り対策が必要になります。そのため重厚な造りとなり、格式の高い建物に使われる様式です。寺院建築の多くは、寄棟造か入母屋造で造られています。

金堂(壇場伽藍)の写真 - 高野山名所図会



金堂の本尊は、高村光雲(たかむらこううん、1852-1934年)が彫った薬師如来像で、秘仏です。

高村光雲は、木彫の彫刻に写実主義を取り入れるなど、日本彫刻の近代化に貢献しました。東京・上野公園の西郷隆盛像や皇居外苑の楠木正成像、シカゴ万博に出品した老猿(重要文化財)を作ったことでも知られています。

金堂内部の壁画(「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」)は、日本画家の木村武山(きむらぶざん、1876-1942年)による作品です。木村武山は、壮麗な花鳥画・仏画で知られ、「院展」で知られる日本美術院の中心画家の一人です。

菩薩像は、こちらが移動しても視線が追ってくるように描かれています。

金堂の拝観時間:午前8時30分~午後5時(通年)
金堂の拝観料:200円


登天の松と杓子の芝(壇場伽藍)

金堂の西側の広場には、「登天の松(とうてんのまつ)」という松があります。

平安時代末期の久安5年(1149年)、高野山の高僧・如法(にょほう)上人がこの松から弥勒菩薩の浄土へ昇天したとされます。

登天の松と杓子の芝(壇場伽藍)の写真 - 高野山名所図会



松の下に生えている芝は「杓子の芝(しゃくしのしば)」です。

如法上人が天に登る際、「小如法」という弟子が斎食の準備をしていましたが、師の昇天を見て、そのまま後を追いました。

その時に小如法が持っていた杓子が落ちたことから、松の周りに生えている芝は「杓子の芝」と名づけられました。



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