弘法大師(空海)の足跡(2)


空海と最澄

京に入った空海は、高雄山寺(今の神護寺)の住職となります。高雄山寺は和気清麻呂が開基した和気氏の氏寺です。和気氏は当時、天皇の側近として権勢を誇っていました。

和気氏はこれ以前に最澄の庇護者ともなっており、高雄山寺の住職もそれまでは最澄が務めていました。

最澄(伝教大師・767年~822年)は、天台宗の開祖で、空海と並ぶ平安仏教の巨人です。

最澄は12歳で出家し、17歳で度縁(どちょう・正式な僧侶の証明書)の交付を受けています。長い間(国家から見て)自称の僧侶に過ぎなかった空海とは対照的に、仏教界のエリートでした。

延暦7年(789年)、比叡山に小さな草庵(一乗止観院または比叡山寺、後の延暦寺)を作り、修行に明け暮れていたところ、平安京の造営にとりかかった桓武天皇の目に止まります。比叡山は新しい都の鬼門の方角にあるため、そこを護る国家鎮護の寺を必要としていたためです。

更に最澄は、官僚化した南都(奈良の平城京)の僧侶たちに批判的だったため、奈良仏教の政治介入を排除するため遷都に踏み切った桓武天皇にとっては最高の人材でした。

そのため桓武天皇は最澄に帰依し、比叡山寺は官寺となります。桓武天皇の側近、和気広世も最澄を積極的に支援しました。広世の父、和気清麻呂が奈良仏教の「怪僧」道鏡によって辛酸をなめさせられたこともあり、和気氏も奈良仏教からの脱却を求めていたのです。

そして延暦23年(804年)、空海と同じ遣唐使船(ただし、乗った船は別でした)に乗って唐に渡ります。空海が長期の留学生(るがくしょう)だったのに対し、最澄は短期で帰って来られる還学生(げんがくしょう)という特別な待遇でした。

唐に着いた最澄は天台山に登り、天台教学を学びました。漢語はできなかったため、弟子の義真に通訳をさせています。正統天台の付法と大乗戒を受けた後、帰りの船の出発を待つ1ヶ月半を利用して密教も学びましたが、密教を身に付けるには期間が短すぎました。

帰国すると、桓武天皇は最澄が本格的に学んだ天台宗ではなく、ついでに持ち帰った密教の方に興味を示しました。(最澄の没後、天台宗にも密教が取り入れられますが、本来の天台宗に密教的要素はありませんでした)

桓武天皇はかつて、藤原氏と組んで政敵の他戸親王、井上内親王、早良親王などを死に追いやったことがあり、その後都で発生した怪奇現象は彼らの怨霊によるものだと考えていました。密教には呪術的要素があるため、桓武天皇は密教で怨霊を鎮めることができるのではと、期待をかけたのです。

桓武天皇は延暦25年(806年)に亡くなりますが、朝廷はその後も怨霊を恐れ、密教を求め続けます。しかし最澄の密教についての知識は中途半端なものだったため、当惑します。

そんな時に、密教の正統な後継者となった空海が数々の貴重な教典とともに帰国してきたのです。朝廷に重用されてきた最澄に対し、空海の身分ははるかに低いものでしたが、最澄は密教については空海の方が長じていると認め、空海に対して弟子の礼をとり、高雄山寺住職の地位も譲りました。

空海が持ち帰った教典や法具の価値が認められ、闕期の罪が許された背景にも、最澄の尽力があった可能性が指摘されています。和気氏も、空海を最澄と同じように庇護するようになりました。

しかしやがて空海と最澄の仲は決裂し、二人は別の道を歩むことになります。

書を借りようとした最澄に空海が「行を修めず、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすべきではない」と拒絶したことや、最澄が派遣した弟子が空海に師事してしまい、最澄のところに戻ってこなかった話が有名ですが、最大の原因はやはり教義の違いにありました。

最澄が説いたのは、「道はそれぞれでも、精進すれば誰でもいつか仏になれる」という「法華一乗」。それに対し空海は、「世界の有り様全てが仏であり、それをあるがままに受け入れ、同調していけば、現世がそのまま浄土となる」という「密厳浄土」を説きました。

「法華一乗」が輪廻が循環するうちにいつかは成仏できるという意味であるのに対し、空海の教えは現世にいながら、生きたまま成仏できるとし、現世を強く肯定したのです。






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