弘法大師(空海)の足跡(4)


満濃池のダム造営

高野山の造営を開始したとはいえ、空海自身がずっとそこに留まったわけではありません。弘仁10年(819年)に伽藍建立に着手した空海は都に戻り、引き続き高雄山寺の運営や東大寺の密教化、宮中での公務、著述・編纂などに携わります。

弘仁12年(821年)、空海は故郷・讃岐での大掛かりな土木工事も指導しています。灌漑用水の満濃池が決壊したため、これをアーチ型のダムに造り替えたのです。

空海は讃岐中から人を集めさせ、密教の修法で工事の成就を祈り、2ヶ月で完成させたと伝わっています。もっとも、工事の全てを空海が指導して2ヶ月で完成させたわけではなく、決壊を防ぐために最も重要な堰の工事で、唐で学んだ土木技術が生かされたと考えるのが自然です。

東寺別当

弘仁14年、退位を目前にした嵯峨天皇は空海に東寺を与え、国家鎮護の寺に相応しい寺にして欲しいと依頼します。

桓武天皇が平安京を造る際に建立させた東寺には、平安京の左京(東側)を護る王城鎮護の役割と、東国を護る国家鎮護の役割を持っていましたが、未だ伽藍は未完成でした。

空海は嵯峨天皇の願いに応え、東寺で講堂や五重塔の建立に着手します。講堂の設計では、須弥壇の上に金剛界の五仏と五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天という21の彫像が並び立つ立体曼荼羅で、仏による国家鎮護を体現化。五重塔も、密教ならではの様式で設計しました。

ただし、空海は天長8年(831年)に病を発し、その翌年から入定まで高野山に隠棲したため、東寺伽藍の完成を見ることはありませんでした。

入定

天長8年(831年)、悪性の皮膚疾患を発症した空海は、天長9年(832年)から穀物を絶ち、高野山で坐禅三昧の日々を送ります。

そして承和2年(835年)、弟子達に遺告を与えた後、瞑想状態に入った(入定)と信じられています。

『続日本後紀』によると、空海の十大弟子の一人、実恵の手紙には空海を荼毘に付した(火葬した)ことが記されていたようです。しかし後世になって「空海の顔色は変わらず、髪や髭が伸び続けた」という話が伝わり、空海は高野山の岩陰で永遠に生き続けているという「入定信仰」が生まれました。

現在でも、弘法大師御廟には毎朝6時に食事が届けられ、維那(いな)と呼ばれる僧侶が世話をしています。御廟の中の様子は、維那以外は知ることができません。

この入定信仰こそが、高野山を永遠の聖地として発展させてきました。空海は、少なくとも実存主義的には、今も生き続けているのです。


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