高野山北部・東部(概略)

高野山北部

高野山の北部は、高野山駅から中心部へ向かうルート上にあり、江戸時代の京街道にも続いています。バス専用道路と高野警察前の間には、女人堂や徳川家霊台があります。

高野山北部の地図- 高野山名所図会


女人堂

女人堂(にょにんどう)は、高野山が女人禁制だった時代、高野山に入れない女性のために設けられた参籠所です。女性たちはここで、一晩中真言を唱えていました。

かつては高野七口のそれぞれにありましたが、現存しているのは京街道(東高野街道、不動坂口)のこの女人堂だけです。

明治5年に女人禁制が解かれてからは、高野山参拝者の休憩所として利用されました。

高野山駅からバスに乗ると、バス専用道路を通った後、この女人堂の脇から高野山に入ることになります。

徳川家霊台

徳川家霊台は、徳川家康と徳川秀忠の霊を慰めるため、三代将軍・徳川家光が建立しました。

寛永20年(1643年)に建てられた一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでいて、右が家康、左が秀忠の霊舎です。

東側にはかつて家光以降の将軍や御三家を祀る尊牌堂(そんぱいどう)もありましたが、明治21年(1888年)に焼失しました。


高野山東部

高野山の東部は、高野山町石道の最後の部分にあたり、奥の院へと続いています。宿坊が多いエリアです。

高野山東部の地図- 高野山名所図会


刈萱堂

刈萱堂(かるかやどう)は、奥の院の入り口・一の橋の300メートル西側にあり、浄瑠璃などで知られる「石童丸物語」の舞台です。

刈萱堂の写真- 高野山名所図会



平安時代末期、九州・太宰府の苅萱の関の関守だったと加藤左衛門繁氏は、世を儚んで出家し、苅萱道心と称して高野山で修行の生活を送っていました。

その直後に生まれた息子の石童丸は14歳の時、父と会うため高野山へやってきます。女人禁制のため同行の母は学文路(かむろ)の宿に残り、一人で登ったところ、奥の院の御廟の橋で僧侶と出会いました。

この僧侶こそが苅萱道心であり、石童丸の話から我が子だと察しますが、苅萱道心は世を捨てた身であったため、石童丸に「そなたの父は死んだ」と偽りました。

石童丸が山を下りると、長旅で病んだ母は亡くなっていました。石童丸は母の遺骨を持って再び高野山に登り、苅萱道心に弟子入りし、道念と名乗ります。実の親子であることを伏せたままの師弟関係でした。

やがて刈萱道心は、親子の情愛にひかれて修行がおろそかになることを恐れて高野山を去り、信州の善光寺に赴きます。そこで地蔵菩薩を刻み、1214年に信州の「刈萱堂往生寺」で83歳で亡くなりました。道念(石童丸)の父であることは、生涯伏せたままでした。

その後道念は信州の方角に紫雲がなびいたのを見て善光寺に行き、父の彫刻を手本に、地蔵菩薩を刻みました。

ここ高野山の刈萱堂は、刈萱道心が高野山で修行していた場所と伝わっていて、「石童丸物語」を絵で紹介しています。出口の手前には、父子が刻んだという「刈萱親子地蔵尊」が安置されています。

この絵物語を見た人々(特に女性)の多くが、感動して真言宗に入信したと伝わっています。

不動院・美福門院陵

不動院は、小田原通りから少し南の奥まった所にある静かな宿坊寺院です。本尊は弘法大師が彫ったという不動明王で、開帳は100年に1度。

境内には、鳥羽法皇の后・美福門院(藤原得子)の陵墓(高野山陵)があります。

保元の乱の原因を作ったとされる美福門院は、高野山に深く帰依していました。壇場伽藍にある「六角経蔵」も、もともとは美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために建立したものです。

美福門院は、「鳥羽殿に自分と得子を葬るように」という鳥羽法皇の遺言に背いてまで、高野山への納骨を希望していました。

美福門院の納骨は、高野山のライバルである比叡山から抗議の声が上がり、女人禁制である高野山も拒否の姿勢を示しましたが、最終的には美福門院の遺志が通り、高野山に納められることになりました。


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