密厳堂(奥の院)


高野山奥の院の中ほど、中の橋の近くにある「密厳堂(みつごんどう)」は、新義真言宗の開祖、覚鑁(かくばん、興教大師、1095-1144年)を祀るお堂です。

高野山西部の地図- 高野山名所図会



覚鑁と高野山

覚鑁は平安時代後期の僧侶で、高野山の座主として活躍しましたが、後に追放されて根来寺を開創した人物です。

20歳で高野山に入った覚鑁は、やがて高野山の堕落ぶりを嘆くようになります。当時の高野山の上層部は世俗権力と癒着し、信心が薄く、食べるために出家した僧侶も数多くいました。

そんな中で覚鑁は大伝法院を建立し、金剛峯寺の座主(高野山のトップ)に上り詰めます。そして真言宗の改革を図るため強硬な手段を打ち出しますが、衆徒の多くは反発し、ついに保延6年(1140年)、焼き討ちをくらった上で高野山を追放されてしまいます。

追放された覚鑁は弟子たちと共に根来山(根来寺)を開創し、そこで真言宗の建て直しを目指しました。

根来寺と高野山の対立

覚鑁の死後も高野山と根来寺の対立は収まらず、一時は衆徒同士の合戦にも至りました。そんな中で、弟子たちは覚鑁の教義を基礎とした「新義真言宗」を発展させました。

根来寺は室町時代に最盛期を迎え、高野山や比叡山と同じく一大宗教都市となります。根来衆と呼ばれる僧兵1万も擁し軍事勢力としても影響力を持ち、織田信長とも協力関係を築きますが、徳川家康に通じたことから羽柴秀吉の紀州攻めを招き、焼き討ちされて滅亡しました。江戸時代になり、紀州徳川家の庇護を受けて一部が復興されました。

密厳堂と覚鑁坂

密厳堂は、覚鑁が高野山時代に鳥羽上皇の宣旨を受けて建て、住処としていた密厳院の跡に建てられたお堂です。保延6年、高野山の衆徒に焼き討ちされた場所です。

高野山と激しく対立した根来寺の祖とはいえ、それ以前に座主として高野山を中興した功績(大伝法院の建立、7荘園の施入など)もあり、現在では高野山の僧侶からも敬われています。

参道はこの辺りで石段の坂道になっており、「覚鑁坂」と呼ばれています。


サイトマップ