「利他主義」の理想と現実-仏教界はなぜ権力と結びついたのか-

即身成仏の最終段階 -現世に執着した空海が行き着いた「利他」-のページでは、即身成仏を完成させるために「利他」が重要なキーワードになることを説明しました。 この「利他」という概念をめぐっても、仏教界では空海以前から、宗教としてのパラドックスを抱えていました。 「縁起至上主義」に転換した大乗仏教が当初に追求した「利他」は、菩薩信仰に象徴される理想主義的な博愛主義でした。 しかし現実世界の「利他」には、綺麗事では済まされない側面があります。仏教界が、権力者と深く結びつくに至った背景を解説します。

「縁起至上主義」への転換

ともあれ、「自己の救済と他者の救済を、同時に実現しよう」という理想のもとに始まった大乗仏教。しかしその先駆者たちの前に、さまざまな難題が立ちはだかります。 そもそも、「一切は空(または自分の認識以外の一切は空)」なのに、なぜ利他などというものが必要なのか。そもそも利他の対象である「他者」とは何なのか。 この問題を解くために使われたのが、「縁起」という概念です。 あらゆる存在は、それ自体としては「空」のまま。何も生み出さないし、実在しないのと同じ。しかし他者と関わる(縁起する)ことによって、初めて何かを生み出し、意味を与えられる。つまり実在することになる。

プラズマ物理学に置き換えれば、原則としての原子の電気量は、プラスマイナスゼロ。その状態だと、単独でエネルギーを発生させることはできない。しかし外からエネルギーが加えられて(縁起して)電子が飛び出すと、プラスの電荷を持つ陽イオンと、さすらいの旅を始めた自由電子が飛び交う不安定な状態になる。こうしたプラズマ状態になると、他の原子にもエネルギーを加える(縁起する)ようになる。 ちょっとこじつけすぎでしょうか・・・しかし「縁起」という言葉は、それぐらい広い意味でとらえてもいいようです。 この「縁起思想」は釈迦の時代からありましたが、大乗仏教ではそれを更に発展させました。初期の大乗仏教を代表した中観派は、「空」と「縁起」が同じものであると説きます。つまり「縁起」は、現象や実在を発生させる原因であるだけでなく、実在そのものでもあるというのです。 そうなると、「どんな縁起をするかと、どんな存在であるかは、同じこと」ということになり、成仏について考える以前に、縁起の作り方を考えることのほうが重要になります。まさに「縁起至上主義」ともいえます。 そこで中観派の人々は、成仏のことはひとまず置いておいて、まずは「菩薩」になることを目指すことにしました。「菩薩」とはもともと釈迦の前世のこと。釈迦はその前世で多くの利他を行っていい「縁起」をつくったために、現世で成仏することができたといいます。 究極の目標は、自らが苦しみから解き放たれる「成仏」ではあるけれど、その過程はあまりにも計り知れない。しかし良い縁起をたくさん作ることで「菩薩」として実在するのであれば、もっと早く実現しそうだし方法もわかりやすい。こうして、自らの現世での利益を減らしてでも、ひたすら利他を行う菩薩を理想像とする「菩薩信仰」が広がっていきます。

世俗権力への接近

「在家の分も功徳を積むことで、みんなの来世を良くしてあげよう」という上座部仏教の「利他」と違い、大乗仏教の「利他」は、人々の現世での生活を良くすることのほうを重視します。 そのためには、寺や洞窟に籠もって、どんなにお祈りをしたとしても、十分な「利他」にはなりません。菩薩の衆生救済も、小さなコミュニティであれば効果が見えやすかったのですが、仏教が広まって利他の対象が拡大すると、どうしても個人でできることには限界があるよね、ということになってきます。 もちろん、人々の不安を和らげるとか、恨みや悲しみを鎮めるとか、カウンセラー的な活動も大きな意味がありますが、大乗仏教が目標とする利他はそれだけではありません。 多くの人々の生活を改善できる「利他」といえば、困っている人たちへの福祉活動や、生産力を高めるための公共事業が必要だということになります。どうしても、大きな資本が必要になるのです。 これは本来は国家の役割なのですが、世俗権力は権力闘争に資本を使いすぎる傾向があります。秩序を維持し、人心を掌握するために福祉活動も行いますが、それよりも権力を維持し、私腹を肥やすことを優先する権力者のほうが多いです。 僧侶たちとしては、権力に働きかけて福祉政策をもっと充実させるか、資本を分けてもらって、自ら福祉活動を運営するしかありませんでした。 権力者の側も、よほど信心深い人でなければ、ただで協力してくれるわけがありません。「信心深い権力者」に依存するのは持続可能ではないし、それはそれでリスクがあるので、やはりギブアンドテイクの関係づくりが必要です。 そのために僧侶たちは、権力者の不安を鎮める精神的指導に加えて、権威の箔付けをしてあげたり、対立する勢力の間を調停してあげたり、支持を集めやすくしてあげたり、庶民を管理しやすくするネットワークをつくってあげたり、権力者の次男坊以降を寺の幹部として天下りさせてあげたりします。 現実社会と深く関わり、現世での利他を実現するためには、清貧な立場を捨てて、権力と結びつくことも必要だったのです。 仏教の組織は誰が来てもウェルカムな懐の深さがありますから、色んな人がはいってきます。そうすると、私腹を肥やしたいとか、自ら権力を握りたいというひとも入ってきますし、そういう人のほうがうまく出世したりします。堕落は避けられないわけです。 特に日本では、蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)以来、権力者の主導で仏教が広まったという経緯があり、奈良仏教では国家と仏教の関係があまりにも深くなっていました。自ら天皇になろうとしたと言われる道鏡は特別としても、僧侶たちの政治へ介入は日常化しており、権力の側がそれから逃れるために、都を移さざるを得なくなるほどでした。 大乗仏教の柔軟性と「利他」の現実志向は、そのような結果をもたらすこともあったのです。他の宗教でも、現実面での利他を重視している大きな宗派ほど、このような矛盾を抱えていました。 次のページ空海と「薬子の変」-血みどろの権力闘争に深く関わった密教-