なぜ墓所の入り口に鳥居が?-神仏習合の発信地・高野山奥の院-

高野山・奥の院には20万以上の供養塔がありますが、その手前には、神道のシンボルである「鳥居」が立っていることが少なくありません。 なぜ、仏教の聖地に鳥居があるのでしょうか?実はこのことは、かつて高野山が宗教戦争を未然に防いだことと、大きな関わりがありました。

供養塔の本当の意味

鳥居の謎について探る前に、まずは奥の院にある供養塔の、本来の意味を考えてみましょう? 供養塔の代表的な形式のひとつが「五輪塔」です。下から順に、「地」を意味する四角形、「水」を意味する円形、「火」を意味する三角形、「風」を意味する半円形、そしててっぺんには、「空」を意味する宝珠形(玉ねぎのような形)が積み重ねられています。 この5つは、古代インドより、この世界を構成する「五大」要素として伝わってきたものです。梵字(サンスクリット語の文字)が刻まれているのはそのためです。 この「五大」という概念は、空海たちが日本に導入したことで、密教を中心に広まりました。 しかしこの「五輪塔」という形式は、インドや中国からの伝来ではなく、平安時代の中期ごろにできた日本のオリジナルだという説が有力です。

つまり、空海の入定からしばらく経った頃に、真言密教などの僧侶が中心となって、「胎蔵界の大日如来」の象徴(三昧耶形)として考え出した可能性が高いのです。それには「大日如来と一体となる」つまり「成仏する」という意味合いがあります。 これが、平安時代後期に広まった浄土思想と結びつき、「死者を極楽浄土に旅立たせるための装置」として、全国に(密教以外の宗派にも)広まったと考えられています。 五輪塔を全国に広めた人物として、真言宗の中興の祖といわれる覚鑁が知られています(当時は木製が多かったといいます)。高野山奥の院は、「五輪塔」という供養スタイルの発信地でもあったのです。 五輪塔の他には、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」というスタイルの供養塔もよく見られます。これは中国から伝わったスタイルで、日本では鎌倉時代に広まりました。装飾性が強いこともあり、貴族や上級武士が好みました。 宝篋印塔は、てっぺんに「相輪」と呼ばれる輪を連ねたような棒があるのがひとつの特徴です。これは釈迦の遺骨をまつる「仏塔(ストゥーパ、卒塔婆)」に由来するデザインです。 細かく言いはじめると複雑ではありますが、とりあえず「供養塔=大日如来」とざっくり解釈しておいて、次の話に進みましょう。

なぜ鳥居と五輪塔がセットに?

さて、高野山奥の院では、入り口に鳥居があり、その奥に五輪塔や宝篋印塔などの供養塔が並ぶ、というパターンをよく見かけますね。 神道では、鳥居には「この内側には神様がいますよ」と明示する役割があります。 「供養塔=大日如来」と考えると、神道の神様がいるはずの鳥居の向こう側に、大日如来が鎮座していることになります。聖域を横取りされた神様は怒らないのでしょうか? 歴史の経緯を見てみると、この珍妙なセットは、神様と仏様との戦いを煽るどころか、むしろ沈静化することに貢献したようです。 これには、高野山が「神仏習合」の発信地として形成されたことが関係しています。高野山は、もともと神道(山岳信仰)の聖地を、空海が朝廷に働きかけて譲ってもらった場所。 朝廷は、神道のリーダーでありながら仏教を推進していましたが、それはさまざまな軋轢も生んでいました。下手をすると、「崇仏主義」の蘇我馬子(そがのうまこ)と「排仏主義」の物部守屋(もののべのもりや)が死闘を繰り広げた6世紀の「丁未の乱(ていびのらん)」のような宗教戦争が再発してもおかしくありませんでした。 空海がもたらした密教には、「なんでも否定せずに取り込む(一体化する)」という特徴があります。それは、宗教戦争を未然に防ぐにはもってこいの思想でした。 密教の本尊・大日如来が、天照大神と同じ太陽神系であることも、「神を信じることと、仏を敬うことは同じことだ」という神仏習合の論理にぴったり当てはまりました。 ひとつの聖地を複数の宗教が共有したら、エルサレムのように紛争の火種になってもおかしくありませんが、高野山では大きな軋轢は伝わっていません。空海が密教に山岳信仰の修行スタイルなどを取り入れた結果、一見、同じ宗教のようにしか見えなくなったためです。 「神」と「仏」が同じものであるならば、鳥居の内側に仏(五輪塔)があっても、特に問題はないのです。 江戸時代、「儒教」という別の大陸由来の思想が神道と一体化し(儒家神道)、その思想を体現した明治維新の結果、高野山でも「神仏分離」が強制されました。 それでも、この奥の院にはそれ以前の、ある意味では「日本人」本来の信仰の形が残っているのです。 奥の院の歴史探索-高野山に眠る武将や僧侶、女性たちの物語-