多田満仲(源満仲)-蔑まれながら武士団を創設した「源氏の祖」-

高野山・奥の院に供養塔がある源氏の祖、多田満仲(源満仲)。彼は天皇の孫でありながら藤原氏の駒となり、仏教で罪とされる「殺生」を繰り返す道を選びました。 そして、その「罪」ゆえに貴族たちから蔑まれながらも、「武士団」という実力集団を形成していきます。 高野山奥の院に供養塔がある「悪行の始祖」多田満仲について解説します。

多田満仲(源満仲)とはどんな人物?

多田満仲(源満仲)は、平安時代中期、藤原氏が栄華を極めた時代の武士です。清和天皇の孫であり(清和源氏の2代目)、貴族の身分でしたが、なかなかの荒くれ者だったようです。藤原氏の駒となって後ろ暗いことにも手を染め、その恩賞として勢力を拡大。郎党を率いて土地の開拓をすすめ、武士団を形成していきました。 自ら手を汚したくない殿上人の代わりに「業」を背負い、その代償として実利を得る道を選んだ、黎明期の武士を代表する人物だったのです。

多田満仲の子孫たち

多田満仲を先祖とする「河内源氏」には、どのような武将たちがいるのでしょうか。特に有名な人物たちを列挙してみます。 ○ 源頼信 多田満仲の三男。藤原道長に仕え、「道長四天王」の一人に。 平忠常の乱を平定し、東国進出のきっかけをつくりました。 ○ 源頼義 源頼信の嫡男。平忠常の乱の鎮圧で父とともに活躍。平直方の婿となって桓武平氏の郎党と鎌倉を獲得し、東国における河内源氏の存在を固めました。その後前九年の役で活躍。 ○ 源義家 源頼義の長男。白河天皇の元で活躍。清原氏の内紛に介入し、後三年の役を起こしましたが、朝廷からは私戦とされてしまいます。しかし、私財から恩賞を出したことで東国武士からの信頼を獲得。子孫の源頼朝が武家政権を開く道筋をつくったと言われます。 ○ 源義光 源頼義の三男で、源義家の弟。後三年の役で苦戦する兄を助けて活躍。その後常陸国などで自らの勢力を根付かせ、武田氏、佐竹氏、南部氏、小笠原氏の祖となりました。 ○ 源義朝 源為義の長男。東国武士団を率いて、保元の乱で活躍。しかし平治の乱で平清盛たちに敗北し、家臣に殺害されました。 ○ 源頼朝 源義朝の三男。父が平治の乱で敗れると伊豆へ配流されますが、以仁王の令旨を受けて挙兵。東国武士を結集して関東を制圧した後、鎌倉で武家政権を確立していきます。

○ 源義経 源義朝の九男。兄・源頼朝の将として一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で活躍。平氏を滅亡させます。その後、自立する動きを見せたことで頼朝と対立し、平泉に逃れた後、自刃。 ○ 源義仲 源義賢の次男で、源頼朝の従兄弟。以仁王の令旨によって挙兵、平氏の大軍に勝利し都落ちさせます。しかし、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢に敗北し、戦死。 さらに、足利氏、新田氏、今川氏、細川氏、佐竹氏、南部氏も、甲斐源氏の武田氏も、そして自称によれば徳川氏も、河内源氏の支族にあたり、多田満仲の子孫です。 そういった「業の後継者」の一人が、満仲の救済も願って、この供養塔を建てたのかも知れません。

高野山奥の院の多田満仲供養塔

多田満仲の供養塔は、世界遺産の「佐竹義重霊屋」と「上杉謙信霊屋」のほぼ中間、参道の右側(東側)にあります。

奥の院(北条五代~吉川元春)

五輪塔には970年の建立と刻まれており、本当であれば奥の院が形成されはじめた初期のものということになりますが、当時はこのような五輪塔の形式は確立されていなかったことから、もっと後の時代に建てられたと考えられます。 奥の院の歴史探索-高野山に眠る武将や僧侶、女性たちの物語-