「性秘儀」と「女人禁制」の密教史-仏教の危機が生んだ思想-

性行為を伴う儀式によって解脱や救済を求める「性秘儀(性的ヨーガ)」。 後期密教ではこの「性秘儀」が行われており、日本の密教でも性行為を「菩薩の境地」としている経典が使われるなど、密教は「性」に対してオープンなイメージがあります。 しかし一方で、高野山は厳しい女人禁制の地であったことも事実。この矛盾が生まれた背景には、どんな歴史があったのでしょうか?

密教と「性」のパラドックス

密教は儀式の神秘性が高く、秘密主義でもあるため、どうしてもこの「性秘儀」のイメージがまとわりついています。実際、密教の一部の流派では性秘儀で成仏できるとしており、その理念がカルト宗教にも利用されています。 一方で密教には、「不道徳な性行為を行ってはならない」という仏教の戒律を、特に厳格に守ろうとした歴史もあります。高野山が女人禁制にしていたのも、修行僧を女性から遠ざける目的があったと見られ、その結果「空海が日本に男色を広めた」と言われてしまうことさえあるほどです。

空海が始めた真言密教を含め、日本で主流となっている密教では性秘儀を否定しており、タブーとされています。 つまり密教は、「(男女の)性行為」に対して非常に寛容だったこともあれば、非常に厳格だったこともあるのです。これは宗派の違いとして理解することもできますが、どうやらそれだけではなさそうです。 複雑なパラドックスに満ちている密教と性秘儀の関係。いったいどのような経緯をたどってきたのか、その歴史を見てみましょう。

由来は古代インド哲学

「性秘儀」の元になっている考え方は、仏教のオリジナルではありません。もともとは古代インドのさまざまな信仰が仏教と融合したものです。 その中でも特に大きな影響を与えたのが、以下の3つの信仰です。 1つ目は、「宇宙との一体化」への信仰です。これは古代インドの信仰を体系化した聖典「ヴェーダ」に、「ブラフマン(宇宙を支配する原理)とアートマン(個人を支配する原理)の一体化」として表現されています。

「ブラフマン」と「アートマン」が一体であることを理解すれば、肉体が死んでも「アートマン(自我)」も永遠に続くことを悟ることができる。そうすれば「解脱」できる、つまり永遠の幸せを得られる、という考え方です。 2つ目の信仰は「ヨーガ」、つまり実践的な瞑想を重視する信仰です。ヨーガとは、呼吸を調整しながら精神を集中させ、心の動きを止めることで「悟り」を得ようという瞑想法。その際、「何か」をひたすら思い浮かべることで、その「何か」と一体化しようとしますが、その「何か」が宇宙、つまりブラフマンであれば、「宇宙と自我の一体化」を目指すということになります。 3つ目は「女性の特殊な力」に対する信仰です。これは「性の力」、つまり生命を生み出す「母の力」に対する信仰でもあります。 「母なる存在が肥沃な大地や豊かな収穫、多くの子どもをもたらしてくれる」という地母神信仰はメソポタミアやギリシャ、ケルト、日本など世界各地にありますが、インドでは最高神のシヴァ神の能力が「シャクティ」と呼ばれる女性的な力として現れ、このような恩恵をもたらしてくれると信じられていました。 この3つの信仰は、互いに深い関わりがあり、どれも仏教に大きな影響を与えています。最初の「一体化の思想」と「ヨーガ」はもちろん、3つ目の「性の力」についても、表立ってではありませんが、儀式や法具などさまざまなところに、そのメタファーが使われています。 とはいえ、それは「性欲」に基づく性行為を連想するためではなく、「母なる創造力」への人々の(主に男性たちの)尊敬と憧れが、理念化されたものだったと思われます。

仏教の危機と「シャクティ派」の「性的ヨーガ」

しかし、そのように真面目に「性」に向き合っていた初期のインド仏教に、危機が訪れます。 同じ古代インド哲学をベースとするヒンドゥー教が、ライバルとして台頭してきたのです。そこで仏教側は、釈迦の教義だけでなくさまざまな信仰を取り込み、複雑なロジックで論理武装することで、ヒンドゥー教に立ち向かおうとします。こうして「中期密教」が生まれます。 商人などある程度「学」がある人たちは、この論理武装を支持し、仏教を支えました。しかし、インドで都市経済が衰退が始まり、商人たちが没落していくと、この方向性は維持できなくなっていきます。 一般の庶民は、その高邁な論理についていけなかったのです。一方で、より分かりやすくインパクトを与えてくれるヒンドゥー教が次々と信者を獲得していきました。 ヒンドゥー教の中でも、特に注目を集めたのが、7世紀頃に生まれた「シャクティ派」と呼ばれる一派です。 シャクティ派は、ヨーガにおいて「第一のチャクラ(身体のエネルギーが集まる場所)」とされる会陰(肛門と性器の間で、脊柱の基底にあたる場所)にこそ「性の力」が宿っていると考えました。 そのエネルギーをシヴァ神がいる頭頂部に上昇させることで「一体化」を体現し、それによって解脱ができる、そしてその最も効果的な方法が性行為だというのです。この信仰は「タントラ」と呼ばれる聖典で体系化されました。

「性秘儀(性的ヨーガ)」は起死再生の策だった?

この聖典に目をつけたのが、既に敗色が濃厚になっていた仏教の僧侶たちです。この頃の仏教は、ヒンドゥー教に加えてイスラーム勢力の圧迫も受け始めており、このままでは滅亡を待つばかりだと思われていました。 そこで起死再生の策のひとつとして、「性の力」を武器に発展していたヒンドゥー教シャクティ派の「性的ヨーガ」を取り入れ、「性秘儀」のインパクトで庶民(特にヒンドゥー教で差別されている底辺の人々)を取り込むことにしたのです。こうして生まれたのが「後期密教」です。 釈迦が戒律で禁じた自由奔放な性行為を、成仏の手段とすることについては、当然僧侶たちの間でも議論を巻き起こしました。しかしこの根源的な問題に対しても、さまざまな理屈を使い、正当化が図られていきます。

釈迦が性的ヨーガを?「秘密集会タントラ」とは

こうして生まれたのが、「秘密集会タントラ」と呼ばれる経典です。 「秘密集会タントラ」は、後期密教の経典群「無上瑜伽タントラ(無上ヨーガ・タントラ)」のひとつ。 「ブッダはすべての如来の身体や言葉、精神の泉である『金剛女陰』に住んでいた」という衝撃的な言葉で始まる経典です。 「金剛女陰に住んでいた」というのは、「性的ヨーガを行っていた」という意味だそうです。釈迦も性的ヨーガを行っていたというのでしょうか? 実際には、この経典の内容は矛盾だらけで、支離滅裂で、反社会的です。「糞や尿、人肉、精液、血を使って諸尊を供養する」「欲におぼれて非倫理的な、社会の最底辺の人々こそが最上の法にふさわしい」「貪欲であることこそが菩薩の道だ」「殺生を職業にしたり嘘をついたり愛欲におぼれる人が悉地(悟りを得られる)」ということが書いてあったり、12歳の乙女をすら「大印(性的ヨーガの愛欲の対象)」にするなど、もはやカルト宗教としか思えないような内容です(実際にオウム真理教など、現代のカルト宗教にも利用されました)。

しかしこの経典には、性的かどうかはともかく、他の仏教の宗派、特に空海の思想との共通点もないわけではありません。それは「世俗社会の考え方を取り込み一体化させる。そのためには欲望さえも、頭ごなしに否定しない」という考え方です。 後期密教が救済の対象にした人たちの中には、ヒンドゥー教では最底辺におかれてしまったアウトカーストの人たちも少なくありませんでした。しかし彼らに高邁な理念を説いても、伝わりません。救済するためには、まずは彼らが信仰しているもの(神、儀礼、呪術など)を仏教に取り入れることが必要だと考えられたのです。 そのひとつが性的な手段を使った儀式であり、「釈迦も君たちと同じことをしていたんだよ」ということで、無理なく仏教信者にしてしまおう、という考えがあったと見られます。 布教の対象にした人々が行っていた儀礼やヨーガ(性的ヨーガもそうでないものも含む)をあと付けの理屈でまとめた結果、このような経典になったようなのです。 また、社会の底辺の人たちの中にはヒンドゥー教で「非倫理的」とされた職業の人が多かったことも、この経典の「反社会性」に影響を与えているとも考えられます。この辺りは、方法はまったく違うとはいえ、親鸞の「悪人正機説」の狙いとも重なります。

「性的ヨーガ」の実態

「性的なヨーガ」の理論については、「特殊な能力を持つとされた女性と性行為を行うことで、男性修行者を中性的・絶対的な存在に近づけ、成仏を目指す」という意味合いがあるといいます。「性欲」という現世の究極の煩悩を否定せず、逆に限界まで高めることで支配する、ということでしょうか。 さらには、「身体のエネルギーをいったん特定の部位に集めてから脳に届けることで悟りが得られるが、その最も手っ取り早い方法が性行為だ」という「最もお手軽な成仏の方法」としての解釈もあったようです。

こういった理念をもとに、例えば、「秘密灌頂」という入門の儀式で、入門者は自分の妻などを僧侶に差し出します。僧侶はその女性と性行為を行い、出てきた精液を入門者に飲ませます。さらに、その際に出てきた女性の液も、入門者に飲ませます。 この儀式の名目は、僧侶が「金剛薩埵」という菩薩に成り代わり、女性が「般若」つまり仏の智慧となり、それらが合体することで「大日如来の慈悲」が、身体から液体として現れてくる、ということのようです。つまり入門者は妻を差し出す代わりに慈悲を得る、ということです。

後期密教は「性秘儀」で自滅した?

後期密教は、性秘儀の効果もあったのか、それまでの仏教を「理念は高そうだけど実感がわかない思想」として敬遠していた人たちをある程度取り込むことには成功しました。 しかし、理念上ではさまざまなことを言えても、実際には「秘密集会タントラ」などの経典は、僧侶が自由奔放な性行為を行う手段として使われることにつながりました。 やがて、その堕落は誰が見ても明らかになってきます。性秘儀に差し出す女性として、若くて美しい処女ばかり求められているようでは、性秘儀など、ただの僧侶の性欲処理のための儀式なのではないか、と考える人も増えてきたのです。 この後期密教の堕落だけが原因ではありませんが、結局、インドの仏教はヒンドゥー教との区別が分かりにくくなって思想としての独自性を失い、やがてイスラーム勢力によって壊滅させられることになりました。

性秘儀を禁止したチベット仏教

その後の後期密教は、チベット仏教に受け継がれました。15世紀にチベット仏教・ゲルク派を開いたツォンカパは、密教に加えて釈迦の教え(顕教)や戒律を再評価し、教義の捉え直しを行います。 ツォンカパも、性的ヨーガの元になった理念、つまり「母なる力」との一体化は評価していました。そして性的ヨーガ、つまり性行為によってそれを実現できることは否定しない一方で、実際の性行為を安易な成仏の方法と見なす「性秘儀」は極めて危険で、デメリットが大きいとして、事実上禁止したのです。 修行者に対しては、釈迦の戒律を守るように求め、異性と交わることはやめて、性的な修行は観想上に留めるように求めました。 こうして、後期密教を思想面では受け継ぎながらも、実践面では全く正反対に、厳しい戒律を遵守したゲルク派は、チベットやモンゴルで人々の支持を獲得し、特にチベット仏教の最大宗派として根付いていくことになります。

「観想による性的ヨーガ」とは

「性的ヨーガ」の理念を受け継ぎながらも「性秘儀」を禁止したチベット仏教。この矛盾を解決するための手段「観想による性的ヨーガ」とは、どんなものだったのでしょうか。 「観想性的ヨーガ」の発想が生まれたのは、インドの後期密教の時代です。性秘儀を行うことで釈迦の戒律を破る、という矛盾を解決するための方法として、一部の僧侶たちが始めていました。 後期密教の性的ヨーガは、「信者を取り込むために、シャクティ派の性的ヨーガと在家信者たちが行っていた怪しげな性的儀式に理屈をつけただけ」だと言ってしまえばそれまでなのですが、真面目に考えて悩む人たちもいました。 そんな僧侶たちの中から、「想像上の性的ヨーガを行うだけで、実際に性行為を行わなければ、戒律に反しないのではないか」という発想も出てきたのです。 シャクティ派の原点になった思想は仏教とも共通するところはあるので、何とか性欲処理とは切り離した形で活用できないか、という考え方です。 この発想を受け継いだのが、ツォンカパのチベット仏教ゲルク派です。 ツォンカパは修行者たちに対し、密教を変に誤解して学んでしまう前に、まずは戒律を厳しく守って顕教を理解するよう求めます。その上で、より高みを目指す手段として、「観想による性的ヨーガ」を行うよう指導しました。

「性器などのチャクラをゆるめて中央脈管に風を入れて、心臓のチャクラに届けることができれば、快楽の中で根源的意識を開放できる」という方法だそうですが、何らかの生物的・心理的作用を利用して疑似神秘体験をもたらしているのかも知れません。 この「観想による性的ヨーガ」のイマジネーションを助けるために、「ヤブユム」と呼ばれる象徴的な仏像が作られました。 ヤブユムは、男女合体尊、男女両尊、父母仏とも呼ばれます。俗称としては「歓喜仏」「合体仏」「和合仏」という呼び方もあります。「男性尊格」の腿などに女性が腰掛け、男女交合を表現することで、女性原理(空性、自利など)と男性原理(慈悲、利他など)の一体化を象徴しているといいます。 カルト宗教では、性行為による快楽を解脱に結びつけたりしているようですが、ゲルク派の場合はまったく逆で、性欲を制御できる修行者であることを前提に、肉体的な快楽から切り離した「観想上」の「男女合体」を行っている、とのことです。 ややこしい理屈なので、誤解されたり悪用されても仕方がないところはあるのですが、ともあれチベット仏教はこの「観想性的ヨーガ」により、後期密教のような堕落から逃れることができました。

空海と最澄にとっての「性秘儀」

空海や最澄が日本に導入した密教は、後期密教やチベット密教の流れをくむものではなく、「性秘儀」を導入する前の密教、つまり中期密教がもとになっています。 中国(唐)での密教は、護国思想と融合することで世俗権力からの保護を獲得したこともあり、現世利益は強調しつつも、「性秘儀」のような無理矢理な大衆化を行うことなく発展することができました。 また、儒教思想が根付いていた中国では、インドの場合とは異なり、開放的な性のあり方は受け入れられなかった、という側面もあります。 空海たちもこの方向性を受け継ぎ、「護国」の儀式などを行うことで朝廷の支持を獲得し、民衆に対しても「現世利益」を説き、実際にさまざまな「利他」の事業を行うことで、密教を日本に浸透させることに成功しました。この場合も「性秘儀」は必要ではなかったのです。

「性」を肯定しながら「女人禁制」を定めた空海

それどころか空海は、高野山を厳しい女人禁制の地と定め、僧侶たちを女性から遠ざけることに尽力しました。女人禁制の最大の原因は、高野山がもともと山岳信仰の地であったことや、日本土着の「穢れ」の概念も影響していたと思われますが、最近の研究では、中国由来の仏教思想だったことが分かっています。 本来、空海は現世を肯定し、人の欲望すらも否定していなかった人物です。さらに真言密教でよく読誦される経典「理趣経」では、「欲心を持って異性を見たり、男女が交わって快感を味わうのも、清浄な菩薩の境地だ」とした上で、それらの「小さな欲」をより「大きな欲」に変えるのが仏の道だ、と説いています。 つまり真言密教も、教義上では、性欲や性行為を肯定しているのです。「金胎不二」などの思想や、密教法具の「金剛杵(こんごうしょ)」「金剛鈴(こんごうれい)」のように、男女の一体化を理念化したりメタファーにしていると解釈できるものも少なくありません。 しかし一方で空海は、「性秘儀」によって僧侶自らが欲望にとりこまれた後期密教の現実についても、何らかの形で耳にしていたはずです。後期密教も、受け入れられなかったとはいえ、多少は中国に伝わっていました。 空海は「性」を肯定しつつも、後期密教のように僧侶たちがそれに取り込まれてしまう危険も分かっていたからこそ、高野山を女人禁制の山にし、自らの母ですら立ち入らせなかったのではないでしょうか?

日本の密教でも行われた「性秘儀」

それでも、密教と「性」との危うい関係は、その後の日本でもさまざまな波紋をもたらします。 鎌倉時代には、真言密教の一派を名乗る「彼の法」という集団が、「理趣経」などの経典を根拠にしながら、性秘儀と髑髏儀式を積極的に行っていました。 その後南北朝時代になると、朝廷の分裂に伴って真言宗の内部でも対立が起こります。この僧侶同士の権力闘争の中で「真言立川流」という流派が、性秘儀を行っている「彼の法」集団と同一視されました。 「立川流=性秘儀」という認識が広まったのはこのためだったとされています。その立川流も江戸時代に邪教として弾圧され、信じられる文献はほとんど残っていないようです。

「密教と性」の背後にあるものとは?

このように、時には僧侶の堕落を招き、またはカルト宗教に利用され、さらには「仏教は女性差別の宗教」と言われる原因を作るなど、さまざまな負の因果をもたらしてきた「密教と性」の微妙な関係。 しかしそれは、「性の神秘性」に対する畏敬の念と、「人の欲望を否定することなく高めたい」という密教の「人間肯定主義」を象徴するものでもあったのです。 次のページNEXT

「虚空の哲人」空海の一代記