勝利寺(高野山町石道)-空海の厄除け寺-

丹生官省符神社のすぐ近くには、空海が厄除けのために建てた「勝利寺」と、空海が製法を伝えたという「高野紙」の資料館、「紙遊苑」があります。

勝利寺の位置(広域地図)

「高野山開創前の寺」勝利寺

丹生官省符神社のすぐ先、右手にある急な石段を登ると、勝利寺と紙遊苑があります。

勝利寺

勝利寺は、空海が高野山を開創するよりも前に創建したと伝えられる寺院です。 空海は弘仁6年(815年)、42歳(数え年)の厄年に、厄除けのために十一面観音を奉納しました。嵯峨天皇から高野山を賜わったのは、その翌年のことです。 石段を登って行くと、古い仁王門が現れます。

仁王門は江戸時代中期、安永2年(1773年)の建築。中に鎮座する仁王像は延享元年(1744年)の作で、高野山奥の院の明遍杉を彫ったものと言われています。 仁王像の周りには沢山の草履が奉納されています。勝利寺は、慈尊院や丹生官省符神社が移転してくる以前から高野山町石道のスタート地点に位置し、参詣者で賑わいました。草鞋や草履を履いてこれから高野山に登る人々が、さまざまな願いをこめて奉納してきたのでしょう。 仁王門をくぐった先、正面に立つのが十一面厄除観音菩薩が安置されている観音堂。こちらも江戸時代の建築です。

空海が奉納した十一面観音は、奈良時代から病気治癒などの現世利益があるとされて信仰されてきた観音菩薩です。 密教の信仰対象ですが、空海らが体系化した密教ではなく、雑密(ぞうみつ・体系化されていない初期密教。真言を唱えることで現世利益を願った)の菩薩として遣唐使が日本に伝えました。 本来の顔の上に、10(または11)の小さな顔がありますが、これは菩薩修行の様々な段階(十地)を表します。 また、10種類の現世での利益(十種勝利)をもたらすとも言われます。 十種とは、「健康でいられること」「仏に受け入れられること」「経済的な不自由がないこと」「敵の害を受けないこと」「王が慰労してくれること」「毒に当たらないこと」「凶器の害を受けないこと」「溺れ死なないこと」「焼け死なないこと」「不慮の事故で死なないこと」の10種類で、「勝利」とは現世利益、または厄除けのこと。つまり、「勝利寺」とは、「現世利益の寺」という意味なのです。 他にも、「四種功德」といって、「死ぬ際に如来と会える」「「地獄で生まれ変わらない」「早死しない」「来世は極楽浄土に行ける」という死(来世)に関わる果報もあります。 十一面観音はまた、「大悲闡提」といって、「仏法を否定する人々も含めて全ての人を救うまでは菩薩界に帰らない」という誓いを立てています。 一般的な宗教のイメージとは異なり、非常に寛容であり、現世を激しく肯定し、庶民の素朴な願いに応えた空海らしい寺だといえます。 観音堂の右には地蔵堂と鐘楼、左には太子堂があります。それぞれが回廊で繋がっていることも特徴です。 他には、天皇や上皇の玉髪を高野山へ納める使者専用の御幸門という門もあります。嘉応元年(1169年)、後白河上皇の高野山参詣をきっかけに造られました。 現在では、「勝利寺」の「勝利」は普通に「勝負に勝つ」という意味で捉えられるようになり、スポーツなど勝負事での勝運を祈る寺にもなっています。

空海が製法を伝えた?「高野紙」の資料館・紙遊苑

勝利寺観音堂の右手にある建物は、「紙遊苑」。「高野紙」の文化と技術を伝える体験型の資料館です。 建物は勝利寺の住職の住居を改修したもので、後白河法皇が高野山参詣の時に宿泊したという部屋もあります。 内部では、高野紙を漉く風景などがジオラマで再現されています。 高野紙(こうやがみ)は「古沢紙」とも呼ばれ、九度山の古沢地区などで古くから生産されてきた手漉き和紙です。空海が製法を伝えたとの説もあります。 原料は高野山の楮(こうぞ)の樹皮であることが多く、麻や雁皮(がんぴ)から作った和紙のようになめらかではありませんが、丈夫なので長期間にわたって保存する重要文書(公文書や経典など)に使われました。 高野山では特に、鎌倉時代に刊行が始まった密教関係の書物(高野版)の印刷に使われました。 江戸時代に高野版が京都や大阪でも出版されるようになったことでいったん衰退しましたが、丈夫であることから、障子紙、番傘などの材料として、紀伊藩の特産品となりました。 楮は栽培がしやすく、加工も難しくないので、高野山のように農耕が困難な土地の副業としては最適でした。 紙遊苑では、高野紙でできた凧や小物なども展示されています。 次のページ町石道ルート案内