御影堂・逆差しの藤・三鈷の松(壇場伽藍)
- Zue Maps | 高野山名所図会 -
「高野山名所図会」は、地図をメインに高野山の見どころを紹介するオンライン観光ガイドです。
このページでは、高野山の壇場伽藍にある御影堂と逆差しの藤、三鈷の松についてご案内します。
地図をすると拡大します。拡大後も地図の切り替えが可能です。また、画面右上の MAP1 や MAP2をすると、記事の途中でも地図を呼び出せます。
御影堂
金堂の奥に建つ御影堂(みえどう)は、空海の肖像(御影)が安置されているため、壇場伽藍で最も重要な聖域とされています。
もともとは、空海が日常的に帰依礼拝した念持仏を安置する持仏堂として建立されました。 その後、平城天皇の第三皇子で、空海の十大弟子の一人となった高岳親王(真如)が描いた「弘法大師御影像」を納め、御影堂となりました。 堂内の外陣には、真如を含めた空海十大弟子の肖像も掲げられていますが、旧暦3月21日に執り行われる「旧正御影供」の前夜を除き、一般の参拝は許されていません。
逆差しの藤
御影堂の裏にまわると、逆差しの藤(さかさしのふじ)と呼ばれる藤があります。高野山再興の功労者として知られる平安時代の高僧・定誉(祈親上人)にゆかりの藤です。
法華経の持経者であった定誉は長和5年(1016年)、観音像のお告げを受けて高野山に登りました。その頃の高野山は東寺との対立や火災によって荒廃していました。 定誉は高野山の再興を誓い、独自に寒さを防ぐ方法を編み出すなどして山内に常住しました。 また、願掛けとして、藤を逆さに植えました。不思議なことに、藤はそれでも芽を出しました。 そして、定誉の入山から7年後の治安3年(1023)、関白・藤原道長が高野山に参詣。これがきっかけで高野山は藤原氏の保護を受けるようになり、権力者の高野詣でが盛んになります。そして、藤の成長とともに伽藍の復興も進み、高野山は最盛期を迎えました。 逆さに植えても生えてきた藤の木は、天皇家にからみついて勢力を拡大させた藤原氏の生命力の象徴でもあるのかも知れません。
三鈷の松
御影堂と金堂の間、赤い玉垣で丸く囲まれた松の木は、高野山開創にゆかりの「三鈷の松(さんこのまつ)」です。
三鈷の松には、以下の様な伝承が伝わっています。 空海は唐から帰国する際に、真言密教の布教に相応しい土地を探してほしいという願いをこめて、法具の三鈷杵(さんこしょう)を日本に向けて投げました。 後に空海が高野山の付近に来たところ、ある猟師(実体は狩場明神)から夜になると光る松のことを教えられます。紀州犬に案内されて丹生明神に会い、高野山を譲り受けた空海はこの場所で松に掛かっている三鈷杵を見つけます。 これこそが唐で投げたあの三鈷杵であり、空海はここに真言密教の道場を開くことを決断。高野山の開創となりました。 三鈷杵が掛かっていた松の葉は三鈷杵に似た三葉であり、「三鈷の松」として祀られました。