高野山の歴史(2)
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「高野山名所図会」は、地図をメインに高野山の見どころを紹介するオンライン観光ガイドです。
このページでは、高野山の歴史のうち、大師信仰が拡大した平安時代以降についてご案内します。
大師信仰の拡大
高野山との主導権争いに勝利した東寺の長者・観賢は、延喜21年(921年)、朝廷に働きかけて空海への弘法大師号宣下を実現させました。空海が「弘法大師」と呼ばれるようになったのはこれ以降です。 観賢は、諡号宣下の勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じて高野山に乗り込み、大師号の報告会を行いました。『日本紀略』には、観賢が報告のため奥の院の廟所を開けたところ、空海の顔色は生前のままだったと記されています。この話が伝わり、空海は実は亡くなって荼毘に付されたわけではなく、御廟の中で「入定(にゅうじょう)」していると信じられるようになりました。 入定とは、生死の境を超えて衆生救済を目指す、真言密教の究極の修行です。土中の穴に入って瞑想状態に入り、そのままミイラ化して即身仏となりますが、これは死ではなく永遠の生命を獲得しているとされます。空海以前にも唐の禅僧、石頭希遷(無際大師・700-790)が即身仏となったとされ、そのミイラが曹洞宗の総持寺に保管されています。 弘法大師の入定信仰は観賢の弟子たちによって広まりました。そして、山科・曼荼羅寺(後の随心院)を建立した仁海(951-1046)の働きかけにより、時の関白・藤原道長の高野山参拝が行われました。これがきっかけで、藤原氏が空海に帰依するようになり、その保護を受けて寺領も増え、高野山は次第に活気を取り戻していきます。 その後入定信仰は貴族から民衆に至るまで広く信仰を集め、高野山は現世の浄土とされました。布教の原動力となったのは、「高野聖」と呼ばれる念仏僧たちです。彼らは諸国を巡り、津々浦々で弘法大師の奇跡を語りました。同時に、高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。高野聖たちが伝えた数々の弘法大師伝説は、今も全国各地に語り継がれています。空海自身がそうだったように、彼ら自身も土木や医療などの最新技術を伝え、それが人々の目には奇跡とうつり、民衆の心をつかんだとも考えられます。 平安末期には白河上皇や鳥羽上皇も高野山に参詣しました。12世紀中盤には平清盛が根本大塔を再建。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝わっています。
武士と高野山
平安末期に台頭した武士たちも、高野山を特別な聖地として崇めました。西行や熊谷直実を始めとして、現世を儚んで出家し、高野山に入った武士は枚挙に暇がありません。 鎌倉時代には、北条政子が源頼朝のために金剛三昧院を建立するなど、有力者の寺院建立が相次ぎました。堂舎の数は二千を数え、高野山は最盛期を迎えます。参詣道に町石が立てられ、町石道が整備されたのも鎌倉時代です。 戦国時代にも、錚々たる武将たちが高野山にやってきました。若き日の長尾景虎(後の上杉謙信)は家臣たちの争いに嫌気が差して突然出奔し、高野山に入って出家しようとしています。北条氏直や真田昌幸・信繁(幸村)父子も、戦いに敗れ、高野山に配流されました。 武士と高野山との関わりは、精神的な側面から捉えることもできますが、高野聖が高度な技術集団だったこととも、おそらく無縁ではないでしょう。