弘法大師の足跡(3)
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このページでは、空海の足跡のうち、嵯峨天皇との交流から高野山開創までをご案内します。
空海と嵯峨天皇
高雄山寺に入った空海は、ほどなくして嵯峨天皇と深い交流を持つようになります。 嵯峨天皇は後に、空海や橘逸勢と並んで「三筆」に数えられるほどの書の達人でした。そのため、空海が唐から持ち帰った書にも強い関心を示し、空海自身にも、屏風への揮毫などを頼みました。 この頃、嵯峨天皇は平城京への還都(都を平城京に戻すこと)を求める実兄の平城上皇との対立に頭を悩ませていました。嵯峨天皇は、兄を唆しているのは側近の藤原薬子や藤原仲成だと考え、彼らを密教で調伏して欲しいと空海に依頼します。 翌年の弘仁元年(810年)には、嵯峨天皇は空海を南都・東大寺の別当に大抜擢しました。東大寺を頂点とする南都仏教勢力は、南都の復活を目指す平城天皇側につく恐れがありました。嵯峨天皇はそのトップに空海を送りこみ、その知恵と対応力で味方につけようとしたのです。 南都仏教勢力側も、最澄に対しては強い反感を持っていたものの、奈良仏教に批判的ではなかった空海は喜んで受け入れました。空海を支持することで、最澄の影響力を相対的に弱めようと考えていたためです。 追いつめられた平城上皇と藤原薬子、藤原仲成は、ついに東国での挙兵を企てました。通称「薬子の変(平城太上天皇の変)」です。 嵯峨天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂に出兵を命じる一方で、空海に勝利の祈祷を依頼しました。素早い対応が功を奏し、藤原仲成は射殺、藤原薬子も自害し、平城上皇の挙兵は未然に防がれます。平城上皇は出家しましたが、関係者には寛大な処置がとられました。 多くの血を流すことなく難局を乗り切った嵯峨天皇は、空海の調伏や祈祷、そして東大寺別当としての働きが大きかったと信じました。 その後空海は高雄山寺に戻り、全山を挙げて大がかりな天下泰平の祈祷を開始します。嵯峨天皇は強く感動し、空海に対する信頼と尊敬は動かぬものとなりました。