奥の院

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このページでは、弘法大師御廟がある奥の院をご案内します。

高野山の西の外れにある高野山奥の院は、弘法大師御廟がある聖域です。 2キロメートルの奥の院参道は杉の巨木に覆われ、無数の供養塔が立っています。

一の橋

「一の橋」は奥の院を参拝する正式なルートの入り口で、「大渡橋」や「大橋」とも言われます。

一の橋(奥の院)

ここを流れる「御殿(おど)川」は、高野山を西から東へと横断し、有田川へと続いている川です。 手前には、高野山観光協会の「一の橋案内所」があり、その横にトイレもあります。

奥の院参道の供養塔

一の橋から弘法大師御廟まで続く参道は、樹齢1000年を超える杉や高野槙の巨木に囲まれた並木道で、静粛な雰囲気が漂っています。

奥の院

この参道沿いにはおびただしい供養塔や祈念碑、慰霊碑が立ち並んでいます。その数は20万基を超えると言われます。

中の橋

2つ目の橋は、「中の橋」または「二の橋」と呼ばれています。「中の橋」は奥の院を途中から参拝する場合の入り口にもなっていますが(バス停や駐車場、案内所があります)、橋そのものはその手前にあります。 ここの川は「金の川」または「死の川」と呼ばれています。中の橋を渡ることで、あの世にまた一歩近づいたことになります。 橋を渡ると、汗かき地蔵を祀るお堂があります。巳の刻(午前9時から11時)に汗を流すと伝えられ、「高野七不思議」の一つです。汗をかくのは、世の中の苦しみを地蔵尊が一身に受けるためとされます。 その右手には「姿見の井戸」があります。水が張ってあって顔が映るようになっていますが、もし映らなければ3年以内に死んでしまうとの言い伝えがあります。

奥の院

密厳堂

汗かき地蔵の先にあるお堂は「密厳堂(みつごんどう)」といって、平安時代後期の高僧、覚鑁(かくばん、興教大師、1095-1144年)が祀られています。 覚鑁は高野山の座主として活躍しましたが、後に追放されて根来寺を開創した人物です。 20歳で高野山に入った覚鑁は、やがて高野山の堕落ぶりを嘆くようになります。当時の高野山の上層部は世俗権力と癒着し、信心が薄く、食べるために出家した僧侶も数多くいました。 そんな中で覚鑁は大伝法院を建立し、金剛峯寺の座主(高野山のトップ)に上り詰めます。そして真言宗の改革を図るため強硬な手段を打ち出しますが、衆徒の多くは反発し、ついに保延6年(1140年)、焼き討ちをくらった上で高野山を追放されてしまいます。 追放された覚鑁は弟子たちと共に根来山(根来寺)を開創し、そこで真言宗の建て直しを目指しました。 覚鑁の死後も高野山と根来寺の対立は収まらず、一時は衆徒同士の合戦にも至りました。そんな中で、弟子たちは覚鑁の教義を基礎とした「新義真言宗」を発展させました。 根来寺は室町時代に最盛期を迎え、高野山や比叡山と同じく一大宗教都市となります。根来衆と呼ばれる僧兵1万も擁し軍事勢力としても影響力を持ち、織田信長とも協力関係を築きますが、徳川家康に通じたことから羽柴秀吉の紀州攻めを招き、焼き討ちされて滅亡しました。江戸時代になり、紀州徳川家の庇護を受けて一部が復興されました。 密厳堂は、覚鑁が高野山時代に鳥羽上皇の宣旨を受けて建て、住処としていた密厳院の跡に建てられたお堂です。保延6年、高野山の衆徒に焼き討ちされた場所です。 高野山と激しく対立した根来寺の祖とはいえ、それ以前に座主として高野山を中興した功績(大伝法院の建立、7荘園の施入など)もあり、現在では高野山の僧侶からも敬われています。 参道はこの辺りで石段の坂道になっており、「覚鑁坂」と呼ばれています。

英霊殿

密厳堂の先、参道を右にそれた場所に建つ英霊殿は、昭和27年(1952年)、第二次世界大戦の戦死者を供養するために建立されました。 春の桜や秋の紅葉が美しい場所です。

御供所・頌徳殿

御供所(ごくしょ)は、御廟で入定しているとされる弘法大師の食事を作っている場所です。 毎朝、行法師(ぎょうぼうし)が御供所で食事を作り、まず嘗味地蔵(あじみじぞう)に供えて味見をしてもらってから、弘法大師御廟に運びます。 奥の院の寺務所にもなっていて、お守りなどを売っています。 御供所の隣に建つ頌徳殿(しょうとくでん)は「茶処」とも呼ばれ、お茶のお接待を受けられる休憩所です。大正4年、開創1100年記念事業の一環として建てられた大正建築です。 近くには木食応其(豊臣秀吉の紀州攻めの際に和議を仲介した高僧)を祀る興山廟があります。

御廟の橋

奥の院参道の3つ目の橋は「御廟の橋(みみょうの橋)」と呼ばれ、その名の通り弘法大師御廟のすぐ手前にかかっています。 36枚の橋板があり、更に橋全体を1枚と数えて、金剛界の三十七尊を表しています。橋板の裏側には、一枚ずつ梵字が刻まれています。 御廟の橋がかかる川は「玉川」とよばれる清流で、霊峰・揚柳山から流れています。かつては禊の場所でした。流れの上に立てられた卒塔婆は、水難や難産で亡くなった人を供養しています。 御廟の橋の右手前に鎮座する仏像は「水向地蔵」で、先祖供養の地蔵です。 ここは、「石童丸物語」の石童丸が父の道心と初めて出会った場所でもあります。 御廟の橋を渡って左奥には「弥勒石」という黒い石が安置されていて、これに触れると弥勒菩薩のご利益があると言われています。持ち上げると、願い事がかなうそうです。 この橋より先は聖域中の聖域であり、写真撮影も禁止されています。

燈籠堂

御廟の橋の100メートル先、弘法大師御廟の手前に建つ燈籠堂は、高野山第二世の真然大徳(しんぜんだいとく)が建立し、治安3年(1023年)に藤原道長が拡張したお堂です。 堂内には祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、貧女の一燈(いっとう)、昭和時代に献じられた昭和燈が「消えずの火」として燃え続けています。 内部は、1万6千余りの燈籠に埋め尽くされています。

弘法大師御廟

奥の院の最深部に建つ弘法大師御廟は、壇場伽藍と並んで高野山の信仰の中心となってきた聖地です。 弘法大師・空海は現在でも、ここで生身のまま禅定に入っている(入定)と信じられています。