美福門院(藤原得子)-美貌と才気で歴史を動かした女性と密教-

高野山の宿坊寺院・不動院の境内に、「美福門院陵」という平安時代の皇族女性の陵墓があります。 美福門院(びふくもんいん)は、藤原得子(ふじわらのとくし または なりこ)の院号(称号)。彼女は鳥羽上皇に強く愛されたことがきっかけとなり、その後の歴史を大きく動かしました。 「保元の乱」と「平治の乱」の原因を作り、勝敗の結果を左右したのも、美福門院の存在です。 平安時代の終焉に美福門院がもたらした影響と、真言密教や高野山との深い関わりについて解説します。

美福門院とはどんな女性?

美福門院(1117年~1160年)は、鳥羽法皇の后だった藤原得子(ふじわらのとくし/ふじらわのなりこ)の院号です。藤原得子は、平安時代終盤の歴史に、平清盛と並んで決定的な影響を及ぼした女性です。 藤原北家・末茂流の貴族で、権中納言だった藤原長実の娘で、「治天の君」として兄弟な権力をふるっていた鳥羽上皇に見初められました。鳥羽上皇にはすでに皇后(藤原璋子・待賢門院)がいたにも関わらず、寵姫だった得子は皇后を上回る権勢を持つようになったのです。 本来の皇后である待賢門院も、鳥羽上皇の父、白河法皇との関係が疑われており、後の対立構図の主因を作ったとされている女性です。しかし、より主体的に歴史を動かしたのは美福門院の方です。 以下、藤原得子(途中から美福門院)が歴史の流れにいかに大きい影響を及ぼしたか、代表的な出来事を列記します。

鳥羽上皇の寵姫・藤原得子(美福門院)

1141年に藤原得子の息子が天皇に即位してから、美福門院の院号を得て、鳥羽上皇が崩御するまでの出来事です。藤原得子自身がどこまで皇位継承への発言力を持っていたかは不明ですが、その存在が決定的な影響を及ぼしたことは疑いようがありません。 1141年 鳥羽上皇が、得子との子である体仁親王(近衛天皇)を即位させるために崇徳天皇を退位させます。同じ年、得子は上皇の妃でありながら皇后に立てられました。 1142年 鳥羽上皇の本来の皇后であった藤原璋子(待賢門院)が、得子を呪詛したとして失脚。出家に追い込まれました。 1150年 その前年に院号を宣下され「美福門院」となっていた得子は、従兄弟の娘を関白・藤原忠通の養女にした上で、息子・近衛天皇の妃にします。近衛天皇はすでに藤原忠通の弟、頼長の養女(待賢門院と同じ閑院流の女性)を妃にしていました。 1155年 近衛天皇が崩御。本来は崇徳上皇の第一皇子が即位するはずでしたが、特別な裁定により後白河天皇が即位。 朝廷では鳥羽上皇-美福門院-藤原忠通-後白河天皇の派閥と崇徳上皇-藤原忠実-藤原頼長の派閥との対立が明確になります(ただし「治天の君」がいる美福門院派が圧倒的に有利)。

保元の乱での美福門院

美福門院がいなければ、保元の乱は発生していなかったと言ってもいいでしょう。美福門院は乱の原因を作っただけでなく、勝敗にも影響を及ぼしています。 1156年 鳥羽上皇の崩御をきっかけに「保元の乱」が発生。後ろ盾を失った美福門院派だが、源義朝に加え、本来は敵筋だった平清盛を味方にすることに成功し、勝利をおさめました。 1158年 美福門院ともうひとりの実力者、信西との「仏と仏との評定」により、後白河天皇が退位し、美福門院の養子・守仁親王が即位(二条天皇)。 このときから、美福門院たち二条親政派、信西派、後白河院政派(反信西派)という三つ巴の派閥抗争が始まります。

平治の乱での美福門院

晩年の美福門院は、保元の乱の4年後に発生した平治の乱でも、その原因と結果に深く関わっています。 1160年 信西派の藤原忠通、平清盛たちと、反信西派の藤原信頼、源義朝たちが激突し、平治の乱が発生。 美福門院たち二条親政派は、当初は反信西派と組んでいましたが、信西が自害に追い込まれた後はその必要はなくなり、信西派に鞍替えします。 兵力では劣勢だった反信西派の支えは「玉(二条天皇・後白河上皇)」が手元にあることでしたが、この美福門院たちの方針転換により、圧倒的不利に陥り、敗北しました。実際に戦闘が始まる前に、大勢は決まっていたのです。 つまり美福門院は、保元の乱だけでなく、平治の乱の勝敗に対しても決定的な役割を果たしたことになります(平治の乱では、実際に動いていたのは美福門院の派閥に属する藤原惟方と藤原経宗でしたが)。

死後も、170年間にわたって歴史を動かした美福門院

平治の乱と同じ年、美福門院は44歳で亡くなります。しかし彼女の歴史に対する影響力が終わった訳ではありませんでした。 美福門院が鳥羽上皇から与えられた広大な荘園は、娘の八条院に受け継がれました。現在の東京都から千葉県にかけて、栃木県足利市、兵庫県相生市などに点在していた荘園です。「八条院領」と呼ばれるこの荘園が、鎌倉時代の始まりを終わりで、大きな役割を果たしていたのです。 1180年 八条院の猶子である以仁王が挙兵。平氏政権に敗れたとはいえ、戦いの主力となったのは、八条院領に関わる武士たちでした(美福門院にも仕えた源頼政や足利義清など)。 1183年 木曽義仲と八条院領の領主、足利義清などが京都を挟撃した結果、平氏は政権を失い、都落ちします。「治承・寿永の乱(源平争乱)」の最終的に勝者となった源頼朝も、挙兵のきっかけは以仁王の令旨でした。 1331年 後醍醐天皇による倒幕運動が開始(元弘の乱)。後醍醐天皇たち大覚寺統の一番重要な経済基盤は八条院領であり、後醍醐天皇が最も頼みにしたのが八条院領の武士たちでした。その代表格だった足利高氏が後醍醐天皇に味方したことが決定打となり、鎌倉幕府は滅亡します。

美福門院はなぜ、高野山への埋葬にこだわったのか?

高野山に強い思い入れがあった美福門院は、この高野山不動院に陵墓を作り、埋葬されました。しかしそれは、鳥羽上皇の意向に背くことだったと記録されています。 鳥羽上皇は、生前から鳥羽の安楽寿院に二つの三重塔を立てていました。ひとつは、自分の遺骸を納めるための本御塔(現・安楽寿院陵)。もうひとつは、美福門院のための新御塔(現・安楽寿院南陵)です。鳥羽上皇は死後も、深く愛した藤原得子と一緒に眠ることを願っていたのです。 しかし美福門院は、亡き夫の願いをかなえることなく、この高野山に自分の遺骸をおさめるようにと言い残しました。 女性の遺骨を受け入れることは、高野山にとっても(最初ではなかったとはいえ)苦渋の決断だったようです。さらには、もともと遺骨が納められるはずだった新御塔を管理していた比叡山からの猛抗議も受け、真言宗と天台宗との対立の火種にもなりました。(新御塔には鳥羽上皇と美福門院の息子である近衛天皇の遺骨が納められました)

美福門院は、なぜそれほどまでして、この高野山にこだわったのでしょうか?そしてその死後に、万難を排して高野山が美福門院を受け入れた背景には、どんな事情があったのでしょうか? その本意を立証するすべはなく、さまざまな説が唱えられています。 美福門院は、彼女と同じように絶対権力者の寵愛を受けた後に中国の歴史を動かした楊貴妃とも共通点があり、楊貴妃を尊敬していたとも言われます。 そのことに加えて、「実は楊貴妃は密かに命を助けられて日本に亡命していた(そして高野山に埋葬された?)」という伝説をもとに、「美福門院が、楊貴妃が眠る高野山への埋葬を願った」という説を唱える人もいます。 しかし他にも考えられる原因があります。密教が持つ神秘的な力、とりわけ「荼枳尼天」と呼ばれる「天女」の呪術への強い信仰です。これは平安後期の貴族の間で流行した信仰なので、美福門院も信じていた可能性は高そうです。 実はこの不動院の「美福門院陵」のすぐ北西に、その「荼枳尼天」を祀っている場所があります。 地図を見てみてください。鳥居のアイコンがついた「清高稲荷神社」です。稲荷神は、空海によって荼枳尼天と習合された神です。 この美福門院の「荼枳尼天信仰説」については、以下で解説しています。 関連ページ清高稲荷神社(高野山)-真言密教と「性の魔女」との接点-

不動院と美福門院陵の歴史

不動院は、平安時代中期の高僧で高野山の座主・東寺長者にも就任した済高(870年~943年)によって、906年(延喜7年)に開基されました。 平安時代後期の12世紀には、美福門院の夫である鳥羽上皇(1103年~1156年)が「紺紙金泥阿弥陀経」や「阿弥陀三尊像」を納めたとも伝わっています。 江戸時代末期に創設された宮家、山階宮家の菩提寺でもあり、美福門院陵もあるなど、皇族との縁も深い寺院です。

「不動院」について

美福門院陵がある「不動院」は、高野山にある宿坊寺院。高野山に数ある宿坊の中でも、特に高い評価を受けている宿坊の一つです。 不動院への行き方 「不動院」観光のポイント不動院の特徴