清高稲荷神社-真言密教と「性の魔女」との接点-
「清高稲荷神社」について
「清高稲荷神社」は、高野山にある神社で、稲荷神を祀っています。開創は空海とも平安時代後期の高僧とも言われますが、密教の聖地に稲荷神社があることは、真言密教と稲荷信仰がいかに深く結びついていたかを物語っています。 その関わりの歴史を、稲荷の起源の一つである性の魔女「ダーキニー」に遡って解説します。
清高稲荷神社の概要や地図、アクセス方法は、以下の「Zue Maps」のページで案内しています。 清高稲荷神社への行き方 「清高稲荷神社」参拝・観光のポイント
清高稲荷神社の略史
清高稲荷神社を伏見稲荷から勧請したのは、弘法大師・空海だと信じられています。 一方、江戸時代に紀州藩が編纂した地誌、「紀伊続風土記」には、平安時代後期に覚鑁(興教大師)が伝法院の守護神として勧請したと記されています。 覚鑁は、真言密教の改革を試みた人物。伝法院は現在の金剛峰寺本坊がある場所にあった改革の拠点です。京都・東寺の守護神が伏見稲荷なので、それにならって清高稲荷を伝法院の守護神にしたとのことです。 高野山に限らず、後世の僧侶が始めたことが空海の事績と信じられて伝わった例は少なくないので、この清高稲荷神社もそのひとつかも知れません。 たとえそうだとしても、高野山に稲荷神社がある背景に、空海と稲荷信仰の関わりがあることには変わりがありません。
空海と稲荷神
密教と稲荷信仰の深い関係は、京都における真言宗の拠点・東寺と、稲荷神社の総本山・伏見稲荷神社の連携が原点だったと考えられています。 もともとの稲荷神は、平安京ができる前からその土地を基盤にしていた、渡来系の秦氏が信仰する稲や屋敷の神。いわば秦氏の氏神のような存在で、今のように全国で信仰される神ではありませんでした。 その秦氏の勢力圏に平安京がつくられた際、南の羅生門の近くに王城鎮護の寺院が二つ建てられます。左京を守る「西寺」と右京を守る「東寺」です。そのうち東寺は、823年(弘仁14年)に嵯峨天皇の依頼により、空海が密教の力で平安京(そして国家そのもの)を守るための拠点になります。 演出家でもあった空海は、遠くからでも見える鎮護のシンボルとして、五重塔の建設を推し進めることにしました。五重塔はその30年前から建設計画がありましたが、工事が進んでいなかったのです。一番の障害は、良質の材木を確保することでした。 そこで空海が目をつけたのが、秦氏の聖域であった東山の伏見稲荷周辺の森です。伏見稲荷は東寺から距離的にも近いですし、聖域なのであまり伐採が行われておらず、立派に育った木がたくさんありました。この森から切り出した木材を使えば、「以前からこの土地を守ってきた稲荷神の霊力が五重塔にもこめられている」とアピールする材料にもなります。 空海の母の出自である阿刀氏は、秦氏の一族だったという説が有力なので、空海と伏見稲荷との間に何らかのパイプもあったのだろうと思われます。 しかし最初は、秦氏との根回しがうまくいっていなかったようです。伐採を始めてからしばらくして、淳和天皇が病気になっていましたが、その理由が「東寺の五重塔を建てるために稲荷社の大木を伐採したことに対する祟りだ」という御神託が稲荷神社から出てきたのです。 焦った朝廷は、稲荷神に従五位下の位階を与えてなだめようとしました。これは稲荷神が「正一位」まで出世していく最初のステップになります。 空海の方でも、何らかの対策が必要になりました。そこで、稲荷神や秦氏を怒らせないために、そしてその力を東寺に貸してもらうために、稲荷信仰の普及に協力することになったのです。 空海は、稲荷神が密教で信仰されている「神」のひとつ、「荼枳尼(だきに)」と同じ存在だということにして、稲荷信仰と密教をセットで布教することにしました。
「性的な呪力を持つ魔女」ダーキニー
荼枳尼は、もともとはインド北東部・ベンガル地方の土着信仰の鬼神「ダーキニー」で、裸で駆け回って人肉を食べる、エロ・グロの魔女でした。 仏教が広まる際に取り入れられ、仏法を守る守護神になります。鬼でも悪魔でも取り込んで「善神」にしてしまうのが、初期仏教のすごいところです。 中期密教では、大日如来(がシヴァ神に化身した大黒天)「生きている人間を食べたらだめだよ。でも死者の心臓ならいいよ」に諭され、「キリカク」という真言とともに万能の神通力を与えられた夜叉「荼枳尼」となりました。 荼枳尼は、死ぬ直前の人と契約を結び、死ぬまでの半年間は力を与える代わりに、死後に心臓を手に入れます。その心臓を食べることで特別な魔力を獲得し、万能の力を発揮するのです。 後期密教では、荼枳尼の性的な力が特に重視されます。「性秘儀」を行う際に、行者の性的パートナー「ヨーギニー(瑜伽女)」とされたのです。後期密教における「荼枳尼」は、ベンガル信仰のオリジナルに回帰したようにも見えます。
最澄と空海にとっての「荼枳尼」
荼枳尼は、他の密教の信仰と同じように、後期密教ではなく中期密教のバージョンが、中国で多少のアレンジを加えられた上で来日しました。その頃の曼荼羅での荼枳尼は、半裸になって屍肉を持つ奪精鬼(死んだ直後の人間の精力を奪う鬼)として描かれています。 天台宗の最澄は、人の心臓を食べて呪力にするような荼枳尼天の秘法はあまりにも危険だとして、比叡山に封じ込めました。 一方、空海はその万能のエネルギーを重視したようです。どんな願いもかなえられる力を持つ荼枳尼天の存在は、多くの人々に希望を与え、信仰の道に引き入れる力があると考えたのでしょう。 そこで「万能の天女」荼枳尼と、東寺五重塔の建設で恩義がある稲荷神を習合させ、「稲の神であり、屋敷の神であり、様々な職業を成功させる万能の天女」として信仰を広めることにしたのです。 荼枳尼は、南方の守護を司る焔摩天(えんまてん)の眷属とされていたので、平安京の南方を守る東寺や稲荷神にもピッタリです。
「稲荷神=荼枳尼天」とキツネ信仰
密教と稲荷信仰がセットで広まっていく中で、荼枳尼=稲荷神は、食物神の宇迦之御魂神(ウカノミタマ)とも習合しました。稲荷神の使いとしてキツネが登場したのもこの頃のようです。 空海の弟子、真雅が書いたとされる「稲荷流記」には、平安京の北にある船岡山に住んでいたキツネの夫婦が、五匹の子どもと一緒に稲荷山にお参りし、「動物だけど何とか人に尽くしたい」と願ったところ、稲荷神の眷属にしてもらえたという伝説が記されています。 こうした伝説の背景には、キツネが春に里に来て晩秋に山に帰ることから、キツネが田の神を先導していると信じられたという説や、食物神は「御饌神(みけつかみ)」とも呼ばれることから、みけつ=みけつね(御狐、三狐)という語呂によりキツネを使いとするようになったという説があります。 真言密教でも、荼枳尼の化身として「白晨狐王菩薩」という白い狐にまたがる天女が登場し、荼枳尼も当初の恐ろしげなエロ・グロの魔女ではなく、「荼枳尼天」という天女として描かれるようになりました。 場所によっては修験道とも習合して、キツネに乗る烏天狗にもなりました。 さらには、本来は稲荷神の使いであり、荼枳尼天の乗り物にすぎないキツネ自身も、信仰の対象になっていきます。キツネが、田畑を荒らすネズミを食べてくれる有り難い動物であったことも、その傾向に拍車をかけました。 キツネが神格化したのは、密教が広まる以前の食物神信仰が、稲荷信仰・荼枳尼天信仰と習合した結果である可能性もあります。
「いなり寿司」を生み出したのは密教だった?"
農村の一部には、農耕を守ってくれることへの御礼として、キツネの巣に「ネズミの油揚げ」を捧げる習慣もありました。しかし、そのためにネズミを殺すことは、仏が禁じている殺生にあたります。荼枳尼天信仰を広めた密教の立場から見れば、好ましいことではありません。 そこで、キツネ信仰と密教との折衷案として、豆腐を薄切りにしてネズミの肉に見せかけ、油揚げにして、稲荷神社にいるキツネにお供えするというアイディアが生み出されました。 「いなり寿司」の由来はネズミの油揚げであり、それを豆腐の油揚げにしたのは密教だったのです。
院政を支える天女となった「荼枳尼天」
一方で朝廷も、稲荷神=荼枳尼天が持つ魔力の虜になりました。朝廷では空海や最澄の影響を受けて、様々な儀式を密教の形式で行うようになっていましたが、平安後期になると、天皇の即位に伴う「即位灌頂(そくいかんじょう)」で荼枳尼天の真言を唱えるようになったのです。 精力を抜き取る恐ろしい側面もあるけれど、美しさと万能の力を兼ね備えた荼枳尼天は、神秘的な力を好んだ平安後期の貴族たち、特に院政を行った上皇や法皇、その寵姫たちにとって、この上ない魅力を持っていたようです。
清高稲荷神社と美福門院陵の位置関係に注目すると…
高野山に稲荷神を勧請したのが興教大師・覚鑁(1095年~1144年)だとすれば、清高稲荷神社が創建されたのは、荼枳尼信仰が盛んになった院政の最盛期にあたることになります。 そして、この稲荷神社の南東隣の不動院に美福門院(1117年~1160年)が葬られたのも、ほぼ同時代となります。 美貌と才気で権力闘争を勝ち抜いた美福門院が、自らの成功は荼枳尼天の加護によるものだと信じていた可能性は十分にあります。 美福門院の権力をもってすれば、奥の院の弘法大師御廟の近くに陵墓を作らせることも可能だったはず。それなのに、なぜわざわざ奥の院の外にある、清高稲荷神社の隣接地に陵墓を作らせたのか、という謎に対しては、不動院と鳥羽上皇の関係が深かったことに加えて「美福門院は空海よりも、荼枳尼天の近くに葬られることを願った」という答えも考えられます。 ひょっとすると、美福門院は政争・戦争を勝ち続ける力を得る代償として、清高稲荷の荼枳尼天に死後の心臓を捧げる契約をしていたため、たとえ本心では鳥羽上皇のそばにいたいと思っても、遺族への祟りを怖れてそれができなかったのかも知れません。 保元の乱と平治の乱で、美福門院と結んで勝利をおさめた平清盛も、荼枳尼天の修法を行っていたと伝わっています。
なぜ稲荷神には強い祟りがあるのか?
農業、商業、工業など様々な業種に恩恵をもたらしてくれる荼枳尼天=稲荷神は、朝廷や貴族だけでなく、庶民の間でも深く信仰されるようになりました。 「お稲荷さん」といえば、今や「お地蔵さん」と並んで日本人にとって最も身近な信仰の対象ですが、稲荷神は地蔵尊のように寛容ではありません。 稲荷の祠を移動したり撤去したりすると、つまり「死ぬまで信じるという契約」を破棄すると、本人や家族が病気になったり死んだりと、祟りがある神様だとも言われます。「狐憑き」という、キツネが人の精神を乱す祟りも信じられるようになりました。 伏見稲荷のような「元祖稲荷神」から見れば、「こんな俗説が信じられるようになったり、稲荷神とキツネが混同されるようになったのは、稲荷信仰が広まりすぎて、レベルの低い野狐が稲荷神を騙るようになったためで、稲荷大神はそんなことはしない」ということだそうです。 もともと日本の神様には祟りがつきものですが、その中でも稲荷神が特に強く祟ると信じられるようになった背景には、稲荷信仰が密教と習合しながら広まった歴史があったと考えられます。 中期密教における荼枳尼天は、死後の自分の心臓(肝)と引き換えに万能の力を分けてくれる存在でした。ファウスト伝説のメフィストフェレスと似た存在です。そのため一度契約を結ぶと、心臓を捧げるまで契約の破棄は許されません。 死後までの服従を強いる荼枳尼天信仰は、「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」などの文学作品では「外法(仏教の道から外れた妖術)」として書かれています。これらは、最澄の怖れを受け継ぐ考えだったことでしょう。 しかしその最澄の天台宗でも、鎌倉時代後期~南北朝時代の僧侶、光宗の宗派などが荼枳尼天の秘術を行うなど、一部で荼枳尼天信仰が広がっていました。 死後に心臓を取られるとしても、裏切ると祟りで報復される恐ろしさがあったとしても、現世に絶大な「ご利益」を与えてくれる稲荷神=荼枳尼天は、日本人の心を捉え続けてきたのです。
神仏分離で「姿」を消した荼枳尼天
明治の神仏分離で稲荷神と荼枳尼天は切り離され、神社になることを強いられた寺社では、祭神が荼枳尼天であった過去が消されることになります。そのため今はほとんどの人が稲荷神は知っていても、荼枳尼天のことも、仏に改心させられたインドの魔女、ダーキニーのことも知りません。 しかし、他の姿に「化ける(化身する)」ことは、荼枳尼が得意とする術のひとつ。荼枳尼自身にとっては、本来の姿が忘れられたとしても、キツネと混同されたとしても、信仰さえ続けば構わないのでしょう。 明治時代より前からの歴史を持つ稲荷神社のほとんどは、荼枳尼天信仰の名残り。稲荷信仰の歴史を知ると、密教が日本人の精神に及ぼした影響がいかに大きかったか、より深く理解できそうですね。 ダーキニー自身は、インド・ベンガル地方で魔女として暴れていたオリジナルの姿は忘れてほしいと願っているかも知れませんが… 関連ページ美福門院(藤原得子)-美貌と才気で歴史を動かした女性と密教-