高野山の歴史探索-日本史の動きと深く関わった聖地-
空海が半生をかけて開創した聖地・高野山。都から距離がある山奥にありながらも、貴族政権・武家政権の興亡と密接に関わっていました。 古代から明治までの高野山の歴史を解説します。
開創以前
古代、高野山の麓、丹生川流域の高野・天野一帯には「丹生(にう)氏」と呼ばれる人々が住んでいました。 「丹生氏」は彩色に使われた朱の原料となる「丹(辰砂)」に関わった人々です。中央構造線沿いなど、水銀鉱床があった場所に住み、丹の産出を行なっていました。今でも全国各地に「丹生」という地名や「丹生神社」が残っています。 丹を製錬して水銀を作る技術を持つ秦氏が大陸から渡ってきてからは、丹の生産の主役は秦氏となり、丹生氏は産出を司る神、丹生都比売神(にうつひめのかみ・通称「丹生明神」)を祭祀する神官となったと考えられています。 弘法大師・空海は若い頃、高野山の辺りで山岳修行をしていましたが、この丹生氏と何らかの関係を持っていたようです。唐に私費留学をすることができた背景にも、丹生氏の援助があった可能性が指摘されています。
高野山の開創伝承
高野山の開創について、平安中期に書かれた『金剛峯寺建立修行縁起』には、以下のような伝承が伝わっています。
弘法大師は唐から帰国する際、真言密教の修行にふさわしい場所を求めるため、三鈷杵と呼ばれる法具を投げた。三鈷杵はたちまち雲にのって日本へ飛んでいった。 帰国した弘法大師が三鈷杵を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)で、二匹の犬を連れた「南山の犬飼」という狩人に出会い、「少し南の山中で、夜な夜な光を放つ松がある」と教えられた。弘法大師が狩人が放った犬について行くと、紀伊国の天野(現在の和歌山県かつらぎ町)で土地の神、「丹生明神」が現れた。実は「南山の犬飼」は、「丹生明神」の子である「狩場明神(高野御子大神)」の化身だった。 「丹生明神」は、「菩薩が私のところに来られたのは幸せです。この山を全てあなたにあなたに献上します」と言って、高野山を弘法大師に譲った。 高野山に登った弘法大師は、広い野原に出た。そして、あの三鈷杵が松の枝にかかっているのを見つけた。弘法大師は「蓮の花のような山々に囲まれたこの地こそ、真言密教の修行にふさわしい。まさに私の求めていた場所だ」と喜んだ。 早速ここを根本道場に定め、山の上に伽藍を造り、そこに丹生明神と狩場明神も祀った。
高野山の開創(歴史的背景)
延暦23年(804年)から大同元年(806年)まで唐に留学し、密教の奥義を学んだ空海は、唐の情報を伝えることで嵯峨天皇との交流を深めていました。 大同5年(810年)、嵯峨天皇は兄の平城上皇と平城京への還都をめぐって対立し、ついに平城上皇が挙兵を図りました(薬子の変)。嵯峨天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂に命じてすばやく挙兵を阻止し、内戦は未然に防ぐことができましたが、実の兄が内乱を起こしたことで、心に深い傷を負いました。空海はこの事件で嵯峨天皇方に立って活躍(嵯峨天皇の勝利を祈念し、平城上皇方の藤原仲成・薬子らを調伏)、乱が収まった後は大々的に国家鎮護の祈祷を行いました。この薬子の変によって、嵯峨天皇の空海に対する信任は更に厚くなっていきます。 弘仁7年(816年)、空海は密教修行の道場を作るため、嵯峨天皇に高野山の下賜を請います。下賜はすぐに叶えられ、空海は弟子を派遣して開創に着手しました。弘仁9年(818年)から翌年にかけては空海自身も高野山に滞在し、金剛峯寺の建立を始めました。 弘仁14年(823年)に空海は京都・東寺も賜り、密教布教の拠点とします。これ以降、深山の高野山と都の東寺は真言宗の二大中心地として互いに関わりあっていくことになります。 承和2年(835年)、空海は高野山で入滅しました。金剛峯寺の建立はまだ中途でしたが、弟子の真然が中心となり、887年に根本大塔などの伽藍を完成させました。
衰退と再興
空海入滅後、金剛峯寺(高野山)や東寺、高雄山寺(神護寺)などの真言宗諸寺はそれぞれ独立した寺院としての道を歩み始めました。しかしやがて、金剛峯寺と東寺のどちらを本寺とするかという論争が起きます(本末争い)。 この争いは、東寺長者と金剛峯寺座主を兼ねた観賢(八五四~九二五年)が東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺と決めたことで決着し、金剛峯寺は負けた形となりました。 正暦5年(994年)、高野山は落雷による火災でほとんどの伽藍を焼失しました。衰退が始まっていた金剛峯寺に再建する力はなく、僧は去り、高野山は荒廃します。 高野山を再興したのは、法華経の持経者(聖)だった興福寺の定誉(958-1047)です。長和5年(1016年)、観音像のお告げで高野山に登った定誉は、冬の寒さを防ぐ方法を編み出し、僧侶たちを山内へ呼び戻すなど、金剛峯寺の復興につとめました。
大師信仰の拡大
高野山との主導権争いに勝利した東寺の長者・観賢は、延喜21年(921年)、朝廷に働きかけて空海への弘法大師号宣下を実現させました。空海が「弘法大師」と呼ばれるようになったのはこれ以降です。 観賢は、諡号宣下の勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じて高野山に乗り込み、大師号の報告会を行いました。『日本紀略』には、観賢が報告のため奥の院の廟所を開けたところ、空海の顔色は生前のままだったと記されています。この話が伝わり、空海は実は亡くなって荼毘に付されたわけではなく、御廟の中で「入定(にゅうじょう)」していると信じられるようになりました。 入定とは、生死の境を超えて衆生救済を目指す、真言密教の究極の修行です。土中の穴に入って瞑想状態に入り、そのままミイラ化して即身仏となりますが、これは死ではなく永遠の生命を獲得しているとされます。空海以前にも唐の禅僧、石頭希遷(無際大師・700-790)が即身仏となったとされ、そのミイラが曹洞宗の総持寺に保管されています。 弘法大師の入定信仰は観賢の弟子たちによって広まりました。そして、山科・曼荼羅寺(後の随心院)を建立した仁海(951-1046)の働きかけにより、時の関白・藤原道長の高野山参拝が行われました。これがきっかけで、藤原氏が空海に帰依するようになり、その保護を受けて寺領も増え、高野山は次第に活気を取り戻していきます。 その後入定信仰は貴族から民衆に至るまで広く信仰を集め、高野山は現世の浄土とされました。布教の原動力となったのは、「高野聖」と呼ばれる念仏僧たちです。彼らは諸国を巡り、津々浦々で弘法大師の奇跡を語りました。同時に、高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。高野聖たちが伝えた数々の弘法大師伝説は、今も全国各地に語り継がれています。空海自身がそうだったように、彼ら自身も土木や医療などの最新技術を伝え、それが人々の目には奇跡とうつり、民衆の心をつかんだとも考えられます。 平安末期には白河上皇や鳥羽上皇も高野山に参詣しました。12世紀中盤には平清盛が根本大塔を再建。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝わっています。
武士と高野山
平安末期に台頭した武士たちも、高野山を特別な聖地として崇めました。西行や熊谷直実を始めとして、現世を儚んで出家し、高野山に入った武士は枚挙に暇がありません。 鎌倉時代には、北条政子が源頼朝のために金剛三昧院を建立するなど、有力者の寺院建立が相次ぎました。堂舎の数は二千を数え、高野山は最盛期を迎えます。参詣道に町石が立てられ、町石道が整備されたのも鎌倉時代です。 戦国時代にも、錚々たる武将たちが高野山にやってきました。若き日の長尾景虎(後の上杉謙信)は家臣たちの争いに嫌気が差して突然出奔し、高野山に入って出家しようとしています。北条氏直や真田昌幸・信繁(幸村)父子も、戦いに敗れ、高野山に配流されました。 武士と高野山との関わりは、精神的な側面から捉えることもできますが、高野聖が高度な技術集団だったこととも、おそらく無縁ではないでしょう。
織豊政権と高野山
高野山は比叡山と同じように、独自の武力を蓄えていました。寺領は17万石以上あり、3万6千の兵を養っていたと記されています。そのため、天下統一を目指す織田信長にとっては邪魔な存在となりました。信長に叛いた荒木村重の家臣を匿い、信長の引渡し要求に応じなかったことをきっかけに、対立が深まります。天正9年(1581年)、信長は三男の信孝に14万の兵を率いさせて高野山攻めを開始。しかし翌年に本能寺の変が起きたため、攻略は中止されました。 信長を継いだ羽柴秀吉も紀州攻めを行い、根来寺を焼き討ちにしますが、高野山の客僧だった木食応其が和議を仲介し、高野山は攻略を免れました。秀吉はその後、金堂や大塔を再建するなど、高野山の復興を援助することになります。 木食応其は豊臣政権と深く関わり、高野山内に秀吉の母・大政所の菩提所「剃髪寺(のちに青巌寺と改名)」と「興山寺」を開基。そして文禄3年(1594年)には、秀吉が徳川家康や前田利家を連れて高野山に参詣し、連歌の会を催しました。一方で文禄4年(1595年)の秀次事件では、青巌寺で豊臣秀次の切腹が行われています。
江戸時代
徳川幕府も、高野山を菩提所と定め、2万1千石の寺領を保証しました。諸大名も競うように高野山に供養塔を建立し、奥の院の参道沿いには無数の石塔が立ち並びました。 庶民の間では「講」を利用した高野山詣が盛んになり、奥の院には無数の小さな供養塔も納められました。 木食応其が開基した青巌寺と興山寺は、宗務を行う「学侶」と政務を行う「行人」の代表院となりました。一方で幕府の厳しい統制下にも置かれ、宝性院と無量寿院の門主には江戸への参勤交代が義務づけられました。
明治時代以降
明治政府の神仏分離政策により、寺社が一体となっていた高野山は再編制を迫られました。 明治元年(1868年)学侶、行人、聖の三派が廃止されました。翌年には青巌寺と興山寺が合併して真言宗の一寺院となり、高野山全体の寺号だった「金剛峯寺」を称します。寺領や寺有林も政府に返上し、経済的地盤も失いました。 明治5年(1872年)には女人禁制が解かれました。 明治21年と昭和元年には大火災が発生し、創建当時からの諸仏の多くを失います。しかし昭和7年に金堂が、昭和12年に根本大塔が再建されました。 昭和21年(1946年)、大真言宗から高野山真言宗として独立。昭和27年(1952年)、宗教法人に認証されました。