丹生都比売神社(紀伊国一宮)-高野山の原点がある世界遺産-

「丹生都比売神社」は、高野山の麓にある紀伊国一宮の神社で、世界遺産にも登録されています。 古代、ヤマト王権の時代から産業の先進地域だったこの場所に目をつけたのが、「気鋭の科学者」空海。 密教の聖地・高野山の原点となった丹生都比売神社の歴史を解説します。

丹生都比売神社の歴史と「技術者」空海

丹生明神(丹生都比売神)は、「神功皇后の三韓征伐」の際に神託を出したと伝えられていることから、初期の大和朝廷(ヤマト王権)が成立した頃(3世紀~4世紀ごろ)から権力者たちからも信仰されていたと見られます。 「丹」は古墳の壁画や石棺で使われたことから、その原料を産出する「天野の里」は経済的にも非常に重要な場所でした。 そして、水銀の精錬技術は中国で進歩していたことから(中国では丹をもとに不老不死の薬を作ろうという「錬丹術(煉丹術)」が盛んでした)、常に大陸伝来の技術が求められていました。 その最新の知見を伝えてくれたのが、唐で密教だけでなく現世に役立つさまざまな技術を学んできた「気鋭の科学者」空海だったのです。 唐に渡る前の空海の足跡は謎に満ちていますが、若い頃から、何らかの形で「天野の里」と深く関わっていたという説もあります。

神様が犬に化身して空海を案内した?高野山の開創伝説とは

空海による高野山開創を伝える伝説に、「丹生明神の土地譲り」という話があります。 この伝承によると、空海は大和の国(奈良県)で黒い犬と白い犬を連れた狩人に会い、高野山に導かれました。この二頭の犬は、実は「丹生明神(丹生都比売神)」と「狩場明神(高野御子大神)の化身であり、この神々の親子は、空海に高野山の土地を譲るために案内したというのです。 この伝説の発展型が、九度山の慈尊院に銅像がある空海を先導した犬の再来?「案内犬ゴン」の物語です。

「土地譲り神話」の背景に「不老不死の技術」があった?

歴史上では、空海は嵯峨天皇の指示によって高野山の土地を譲られたことになっています。古代から天野の里に権益を持っていた朝廷の関与があったことは確かでしょう。 一方で最近の研究では、空海は高野山の開創にあたり、この一帯の有力者である「丹生総神主家当主」、つまり丹生氏(にゅうし・紀伊丹生氏)の当主に協力要請の手紙を出していることが分かっています。 その手紙には、空海と丹生氏が同じ「大名草彦(おおなぐさひこ)」の子孫である、つまり縁戚にあたることも記されています。しかし、丹生氏にとっての聖地に新たな宗教の拠点を築くわけですから、遠い縁戚にあたるというだけでは、協力を得るのは難しかったのではないでしょうか。 つまり、高野山の開創は、丹生氏にとっても大きなメリットがあったはず。それが何であったかははっきりしていませんが、空海が唐で学んできた「丹」つまり水銀関連のプロジェクトであった可能性が高いと言われています。 もっと深読みをすれば、「錬丹術」の究極の目標である「不老不死」は、「即身成仏」とも意味合いが重なります。もちろん、道教の「不老長生術」と仏教の「即身成仏」は思想的には全く違います。しかし当時は、仏教と道教、儒教、神祇信仰(神道)、さらには科学までもが混ざり合って共存しており、空海はその融合をさらに推し進めていました。 丹生氏など高野山の人々にとっては、空海の説く「即身成仏」の思想は、空海が伝授してくれる「不老不死」の科学、つまり錬丹術とセットだったのではないでしょうか? ともあれ、空海が「神の国」であった「高天原」を、宗教的な摩擦を起こすことなく「仏の国」に変えることができた背景に、何らかの形で「丹」が深く関わっていたことは間違いなさそうです。

モンゴル帝国の大軍を「撃退」した丹生明神

その後の丹生都比売神社は、高野山が掲げる「神仏習合」によってますます高野山と一体化していきます。 空海の入定から1世紀少しが経った頃には、丹生都比売神社の神領は高野山の寺領にほぼ吸収されており、ついには丹生都比売神社そのものが高野山に所属することになりました。 しかし、それで丹生都比売神社が神社としての役目を終えた訳ではなく、その後さらに、権力者たちから熱い視線を注がれるようになります。 特に鎌倉時代の元寇の際には、この丹生都比売神社で魔除けの祈祷をした結果、「神風」が発生してモンゴル軍を打ち破ったと信じられました。 この「功績」により、丹生都比売神社は「仏教王国」の一部になっていたにも関わらず、「紀伊国一宮」に指定されるという大出世を遂げたのです。 丹生明神がもともと渡来系の人々の神であったこと、空海やその他の「技術者」を通じて積極的に大陸とつながったこと、一方で「三韓征伐」の伝説や元寇の際の「神託」に見られるように大陸の勢力との戦いで「神威」を発揮したことなど、さまざまな意味で大陸との関係が深い神社です。 高野山の一帯は、古代から平安時代に至るまで、大陸の文化と技術、そして宗教を日本に導入する一大拠点だったのかも知れません。

「天野の里」のその他の史跡

「天野の里」には、丹生都比売神社の他にも見どころがあります。

天野の里
丹生都比売神社周辺

鳥羽天皇の皇后、藤原璋子(待賢門院)に仕えた「中納言の局」が隠棲した場所だという「院の墓」。中納言の局は、武士出身の歌人として名高い西行とも深い関係があったと言われ、墓の近くには「西行堂」もあります。 そして、平家物語に関わる伝承を伝える「有王丸の墓」。有王丸は、「鹿ケ谷の陰謀」の首謀者の一人で、陰謀の発覚後に「鬼界ヶ島」に流された俊寛の弟子だった人物です。俊寛の後を追って鬼界ヶ島に渡り、その地で亡くなった俊寛の遺骨を高野山に納めたあと、この天野に隠棲したと伝えられています。 時間があれば、少し山を登って、高野山町石道の「二ツ鳥居」などの見どころにも行くのもおすすめです。 高野山の歴史探索-日本史の動きと深く関わった聖地-