- 高野山の歴史探訪 -

「平敦盛 V.S. 熊谷直実」信長が愛した物語のメッセージ

高野山・奥の院にある平敦盛・熊谷直実供養塔。ここでは平家物語に描かれた、源平合戦の「一ノ谷の戦い」の敵同士が同じ墓所に入っています。 織田信長が愛した幸若舞「敦盛」が描いているのは、この2人の物語。中世・近世の武士たちの複雑な感情を、よく物語ってくれる場所です。

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平敦盛と熊谷直実の物語

「平敦盛・熊谷直実供養塔」は、一の橋から奥の院に入ってすぐ、「佐藤義重霊屋」の近くの分岐を右に入っていった先にあります。 中に入ると、小ぶりな2基の供養塔が、肩を寄せ合うように並んでいます。右が源氏の猛将・熊谷直実、左が平家の貴公子・平敦盛です。

奥の院(一の橋~平敦盛)

平敦盛は、平家全盛時代を築いた平清盛の甥にあたります(清盛の弟、経盛の末子)。笛の名手であり、武将というよりも貴公子という感じの若者だったようです。 一方の熊谷直実は、武蔵の武将。保元の乱、平治の乱にも参戦した歴戦の武将で、弓の名手だったと伝わっています。出身地に近い上越・北陸新幹線の熊谷駅前に彼の騎馬像が立っています。 一ノ谷の戦いの時、敦盛は16歳、直実は43歳。平家側は奇襲を受けて敗北し、船で逃げることになります。敦盛も船に乗ろうとしていましたが、追いついた源氏側の武将、熊谷直実が「逃げるのは卑怯だぞ」と言って呼び止め、一騎打ちを挑みます。 歴戦の武将と、公家のような若者の一騎打ちはあっという間に決着がつきました。熊谷直実は、敦盛が息子と同じ年頃の少年であることを知って助けようとしますが、敦盛は武士としての死を選びます。 心に思うところがありながらも、大手柄を立てた直実。しかし勝者の一人となり、武士としての念願を果たしたにも関わらず、その後の政治の駆け引きでは失敗続きで、主君である源頼朝から冷遇されるようになります。 直実は、ついに出家を決意。浄土宗の開祖である法然に直接弟子入りし、「蓮生」という僧侶になりました(実際の経緯を見ると、出家を決意した主な理由は、敦盛を討ったことで悩んだというよりも、政治の権謀術数に巻き込まれて、剛直な武将として嫌になった、という可能性の方が高いようです)。

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織田信長と幸若舞「敦盛」

平敦盛の最期は、貴族化して栄えながらも、武士として滅んだ平家一族の悲劇の象徴として伝えられ、「諸行無常」を伝える「平家物語」の中でも最も有名なエピソードになり、能や幸若舞、文楽、歌舞伎などの人気演目にもなりました。 そのうち幸若舞には、熊谷直実が世をはかなむ言葉として、「人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり」という一節があります。 これは、「人間の世界での50年というのは、天上界の時の流れから見ると一瞬にすぎず、夢幻のようなものだ」ということですが、現実生活での成功や失敗、勝ち負けは、長い目でみれば無意味なものだ、という意味もこめられています。 平敦盛の人生も、熊谷直実の人生も、まさにそれを体現していました(平敦盛の人生は短すぎたので、平家の盛衰、と言ったほうがいいかも知れませんが)。 この一節を好んだ織田信長は、「うまくいこうが、失敗しようが、最終的には同じことだ」と達観することで、決断する時の悩みから逃れようとしていたのでしょうか。それとも刹那的であることを十分に理解した上で、栄光を求め続けたのでしょうか。