武将たちにとっての奥の院-高野山が和解の場所になった理由-

「この世の浄土」とされる高野山・奥の院は、死闘を繰り広げる武将たちの対立をリセットできる場所でもありました。 「弘法大師伝説」によって滅亡しかけていた高野山を蘇らせ、「終末論」に絶望する人たちの希望となった高野山奥の院。この聖地が、「殺生」に明け暮れる武将たちの和解の地となるまでの歴史を解説します。

弘法大師伝説と「この世の終わり」

空海がその半生をかけて開いた高野山は、835年の空海入定後、後継者たちの内部抗争や火災などにより、いったん荒廃しました。 実は、その落日の高野山が一大聖地に生まれ変わった背景には、この奥の院の存在が大きく関わっていました。 10世紀から11世紀にかけて、「弘法大師」と呼ばれるようになった空海は、おそらく本人も想像していなかったような伝説のヒーローとして生まれ変わります。後継者たちが、空海の「即身成仏」を「弘法大師の救世主伝説」に変えて宣伝したためです。その発信地がこの奥の院でした。

当時、貴族による政治が衰退し、武士が台頭する過程で治安が乱れ、人々の現実生活での不安が高まりっていました。それと同時に、仏教界でも「釈迦の教えは衰退し、滅びようとしている。このままでは、やがてどんなに修行を重ねようが、誰も救済されなくなってしまう」という終末論的な考えが広がりました。いわゆる「末法思想」です。 そしてこの「世界の終わり」から逃れるには、はるか西の彼方に「極楽浄土」という理想郷をつくった阿弥陀如来にご招待いただくしかない、という浄土信仰(阿弥陀信仰)が広まりました。現世での救済が現実面でも、精神面でも否定されてしまった以上、人々は「来世で西方極楽浄土に行く」という希望にすがるしかなくなったのです。 しかし例外的な場所がありました。「入定」という伝説になった空海がいる、この高野山奥の院です。空海が生死を超えた存在でいるこの聖域は、現世の中にありながら、同時に極楽浄土でもある、と信じられるようになりました。

一の橋(奥の院)

空海が「救世主」を連れてくる?

なぜ現世と極楽浄土が同じ場所で共存できるのか。この考え方の背景には、現世を肯定した空海の「即身成仏」の思想に加えて、「浄土信仰」と同じ時期に流行した「弥勒下生信仰」が関係しています。 「弥勒下生信仰」は、釈迦が滅してから56億7千万年後、現在はまだ修行中の弥勒菩薩が成仏を果たして「弥勒仏」にアップグレードし、現世に救世主として現れ、釈迦には救済してもらえなかった人たちも救済してくれるという信仰です。そして空海は、実はこの弥勒菩薩につき従っていて、弥勒仏へのアップグレードが終わり次第、高野山に連れてきてくれるというのです。 奥の院で待っていれば、救世主(弥勒仏と空海)がやってきたとき、その説法を直接聞くことができて、確実に救済してもらえるということになります。 「浄土信仰」のようにこっちから行くのではなく、救済のほうから現世にやってきてくれるのがポイントです。現世が浄土になるのですから、現世を捨てなくてもよくなるのです。 奥の院に参道がつくられ、供養塔が立ち並び始めたのはこの時期です。供養塔や墓所を作る人たちは、真言宗の宗徒だけではありませんでした。浄土信仰や弥勒下生信仰は、宗派とは関係なく広まったためです。さらに「高野聖」と呼ばれる人たちの布教活動(勧進)が功を奏し、救済を求めて高野山に寄進をしたり、巡礼にやってきたり、修行をする人たちも増えていきます。

宿敵同士が共存できる場所

深い業を背負ったと自覚する人ほど、高野山での救済を求める傾向がありました。「こんなに悪行を重ねてしまったのでは、閻魔様が許してくれるわけがない。来世はひどいことになりそうだ。もう釈迦からの救済はあきらめ、弥勒仏の救済にかけるしかない」と考えたのかも知れません。 その代表格が、「殺生」を含む武力や暴力によって生きてきた武将たちです。戦いで勝利した武将も、敗北した武将も、高野山で業をリセットして、弥勒仏に救済してもらう日を待ちたいと願いました。

その結果、平敦盛と熊谷直実、上杉謙信と武田信玄、織田信長と明智光秀、石田三成と徳川家の家臣たちなど、現世で死闘を繰り広げた人たちが、この高野山奥の院ではほぼ隣り合って、または極めて近い距離で共存することになります。 それと並行して、「対立をリセットできる場所」として知られるようになった高野山は、現世での対立の解消にも、大きな役割を果たしていくことになります。 本来、奥の院は、弘法大師御廟をお参りするための場所とされています。しかし同時に、武将や兵たちの「業」や、戦争・災害の犠牲になった無数の人たちに思いを馳せ、その救済を願う場所でもあるのです。 奥の院の歴史探索-高野山に眠る武将や僧侶、女性たちの物語-