戦国の女性たちと高野山-女人禁制の聖地に救いを求めた理由-

高野山・奥の院には、戦国の世を生きた女性たちの供養塔もあります。奥の院で最も大きい五輪塔も、女性の供養塔。 女人禁制だった高野山に彼女たちの供養塔が建てられた背景には、どんな出来事があったのでしょうか?

奥の院最大の五輪塔が伝える「将軍の母・お江」の悲劇

千姫の供養塔のすぐ近くに、「一番石塔」と呼ばれる五輪塔があります。

奥の院(島津義久・義弘~前田利長)

「一番石塔」とは、高野山奥の院で最も大きい五輪塔という意味です。

どんな戦国武将の供養塔なのかと近づいてみると・・・鳥居の手前の標柱には、「崇源院(徳川秀忠夫人)墓所」と書かれています。 高野山奥の院には、勝者・敗者を問わず200もの戦国大名の供養塔があるにも関わらず、戦国の最終的な勝者となった徳川家康と徳川秀忠の供養塔はありません。彼らは、壇上伽藍の北にある「徳川家霊台」でまつられています。 この崇源院・お江は、生まれながらの絶対権力者・徳川家光の母。将軍の母だから、これほど大きな供養塔が立てられたのでしょうか?

この供養塔にこめられた思いは、絶対権力者の栄光とはかけ離れたものでした。 お江は、戦国の世で女性たちにふりかかった運命を、一人でいくつも背負った女性でした。 父・浅井長政の死。継父・柴田勝家そして母・お市の死。さらに、その両方の落城の悲劇をもたらした秀吉の命令で、最初の夫、佐治一成と離縁。秀吉の甥、豊臣秀勝と再婚するものの、豊臣秀勝は朝鮮半島で病死。徳川秀忠の妻になったのはその後のことです。それからも、娘・千姫の悲劇に立ち会うことになります。 その次にふりかかった運命は、息子たちの対立です。しかし今度は、お江自身が原因の一端を作っていました。 お江は、嫡男(次男)の家光よりも、三男の忠長のほうを寵愛していたのです。母・お市の兄(つまり自身の叔父)、織田信長の面影があったからとも言われます。お江は秀忠に働きかけ、次の将軍を忠長にしようとしました。 しかし当時の絶対権力者は、まだ徳川家康でした。春日局が家康に直訴したことにより、次期将軍は家光に決まります。しかし兄弟の対立はこれで終わりませんでした。 徳川忠長は大阪城の城主になろうとするなど、家光に並び立つ権力を獲得しようとします。しかし、1626年に崇源院・お江が死去すると、後ろ盾を失って凋落。酒に溺れ、問題行動を重ね、家光だけでなく秀忠とも対立。秀忠の死後は領土を没収された上で、切腹を命じられました。 この供養塔は1627年に、すでに凋落が始まっていたものの、財力だけはあった徳川忠長によって建立されたものです。 徳川忠長みずからの意志によって建立されたのか、母・お江の遺言だったのかは分かりません。前者であれば敗者の無念が、後者であれば、息子たちを対立させてしまった母の悲しみがこめられていることになります。 いずれにせよ、この奥の院最大の五輪塔は、徳川将軍家の栄光ではなく、悲劇を象徴するものだったのです。

夫・豊臣秀頼を祖父と父に殺された「千姫」

「高麗陣敵味方戦死者供養塔」の先で、参道から左に分岐している道に入ります。その奥にあるのが天樹院・千姫の供養塔です。

奥の院(島津義久・義弘~前田利長)

千姫は徳川秀忠とお江の娘。つまり徳川家康の孫にあたります。関ヶ原の戦いから3年後、祖父・家康の戦略により、7歳で豊臣秀頼と結婚させられました。 結婚から12年後には、大阪夏の陣が発生。大阪城から救出された千姫は、祖父と父に対して豊臣秀頼と淀殿の助命を願いますが、聞き遂げられず、夫を失います。 その後、本多忠勝の孫、本多忠刻と再婚。しかしその本多忠刻にも先立たれて本多家を出ることになりました。 千姫も、天下人の娘でありながら、数々の不幸に見舞われた女性です。 奥の院の歴史探索-高野山に眠る武将や僧侶、女性たちの物語-