島津家を救った高野山-義久・義弘の兄弟対立はなぜ防がれたか-
高野山・奥の院に点在する薩摩島津家の墓所。 島津家と高野山との間には、深い因縁がありました。高野山がなければ、島津家は存続せず、薩長同盟を主体とする明治維新もなかったかも知れないのです。 戦国期、九州最強の大名となった島津家の兄弟たちが、天下人・豊臣秀吉の討伐という危機をいかにして乗り切ったのかを解説します。
島津家のヒーローたち(島津義久・義弘・斉彬ほか)
。奥の院には島津家の墓所が3つありますが、その中でも一番奥(密厳堂の先)にある墓所には、特に著名な人物の供養塔が集まっています。
戦国時代~江戸初期の武将たちと、幕末の藩主たちです。 戦国時代、九州をほぼ統一するほど勢力を拡大し、一時ではあれ島津家の最盛期を築いた島津義久。 島津義久の次弟で、九州はもちろん、朝鮮半島や関ケ原でもその名を轟かせ、「鬼島津」と恐れられた島津義弘。 薩摩藩の8代目の当主で、徳川将軍家の外戚になる一方、西洋の学問を積極的に導入し、により明治維新で薩摩藩が活躍する礎を築いた島津重豪(しげひで)。 島津重豪の孫で、島津重豪の大盤振る舞いにより危機に陥った財政の立て直しに取り組んだ島津斉興。 島津斉興の息子で、島津重豪の路線を復活させ、薩摩藩独自の富国強兵政策を推し進め、西郷隆盛たちを重用するなど、明治維新に大きな影響をもたらした10代目藩主・島津斉彬。 あとは、この5人ほど有名ではありませんが、島津義弘の次男である島津久保と、島津義弘の家臣である長壽院盛淳の供養塔もあります。 島津久保は、薩摩藩初代藩主の島津家久(忠恒)の兄にあたり、本来は島津義弘の後継者とされていた人物。しかし朝鮮の陣中で、父に先立って病死しました。 長壽院盛淳は関ヶ原の戦いのハイライトのひとつ「島津の退き口」で、島津義弘の陣羽織を羽織り、主君の身代わりになって討ち死にしたことで知られています。
島津家と高野山の因縁とは?
なぜ高野山に、島津家の墓所が3つもあるのでしょうか。このことは、島津家と高野山との深い因縁を物語っています。 高野山は島津家を(その中でも特に島津義弘を)、破滅から救ったことがあるのです。 そのことを物語っているのが、この「島津家墓所」に、家臣であるにも関わらず入っている長壽院盛淳です。 実は長壽院盛淳は、もともと木食応其のもとで修行した高野山の僧侶でした。その後島津義久に取り立てられ、使僧として、そして後には武将としても活躍します。 島津家の九州制覇により、天下人・豊臣秀吉と対立する可能性が高まってくると、長壽院盛淳はかつての師、木食応其に連絡をとります。当時、高野山のリーダーになっていた木食応其は、秀吉と良好な関係を築いていたからです。 しかしこのときの仲介はうまくいかず、秀吉は九州平定を開始。島津家は敗れ、滅亡の危機に直面しました。それを救い、何とか和睦を実現させたのが、長壽院盛淳と木食応其、つまり高野山による仲介だったのです。 一方で島津義弘は、九州平定では根白坂の戦いなどで奮戦しましたが、兄の義久が降伏を決意したあとも徹底抗戦を主張します。そのため島津家を存続させるためには、義久は義弘を討伐するか、死罪に処するしかない、という事態に陥ります。 ここでも仲介の役割を果たしたのが高野山です。木食応其が秀吉にとりなし、島津義弘の息子、島津久保を人質に出す。その代わり義弘は大隅の国を支配して良い、という条件で決着したのです。 武士にとって領土は、何よりも大切なもののひとつ。一国を与えてくれるというのですから、死を覚悟していた義弘にとっては、この上もない条件での降伏となりました。その後長壽院盛淳は、義弘の家老として取り立てられ、豊臣家とのパイプを生かしつつ、島津家の領内での太閤検地などに奔走します。 秀吉としては、島津家最強の義弘を徹底的に取り込み、駒として活用する一方で、義久と対立させることで島津家に対する分断統治を狙ったのでしょう。 この戦略のうち、前者は見事に当たり、島津歳久とともに反・秀吉の急先鋒だった島津義弘は、一転して親・豊臣の代表格となり、秀吉死後の関ヶ原の戦いまでその立場を貫きます。その背景に、長壽院盛淳の存在があったことは大いに想像できます。 島津義久も、豊臣政権下での生き残り対策として、秀吉のお気に入りの義弘を名目上のリーダーにすることにします。このため秀吉の戦略のうち「義久と義弘を対立させる」という後者の目的は達成できませんでした。 この島津家のしたたかさは、関ヶ原の戦いの戦後処理、という次の危機でも発揮されます。薩摩藩は島津義弘の子孫が受け継ぎ、繁栄していくことになりました。
家臣の五輪塔の方が目立っているのはなぜ?
中央にある、大きな三重層塔が島津義久。そのすぐ左にある五輪塔が長壽院盛淳です。 左側(西側)に立っている3つの宝篋印塔のうち、中央が島津義弘、その右側(北側)は島津久保、左側は島津斉彬。 そして義久の右側(東側)に並ぶ2つの宝篋印塔のうち、左が島津重豪、右が島津斉興です。 島津家と高野山との関わりを知った上であれば、なぜ奥の院に島津家の墓所が3つもあるのか、そして薩摩藩の祖であり崇拝の対象でもあった島津義弘の宝篋印塔よりも、長壽院盛淳の五輪塔の方がが目立っているのかが、腑に落ちますね。 長壽院盛淳と高野山による仲介が成功しなければ、「薩摩藩」という存在も、その後の「薩長が主導した明治維新」も、なかったかも知れないのです。
薩摩藩の初代藩主・島津家久(島津忠恒)
伊達政宗の墓所の少し先(中の橋の手前)、参道の南側に、石の鳥居をそなえた墓所があります。鳥居の下の案内の標柱には、「薩摩島津家 初代家久 二代光久 綱久 墓所」と書かれています。
一の橋の近くにも薩摩島津家の墓所がありましたが、あちらは江戸時代中期の藩主で、こちらは初期の藩主たちのものです。 「島津家久」というと、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取り、戸次川の戦いで長宗我部信親や十河存保を討ち取った「島津四兄弟の末弟」、島津家久をイメージする人が多いですが、この「薩摩藩初代藩主・島津家久」は、その島津家久の甥にあたります(島津義弘の子)。 同名でまぎらわしいので、今ではこちらの「初代藩主」の方は以前に名乗っていた「島津忠恒」という名前で呼ばれることのほうが多いです。 島津光久はその「島津忠恒」の息子であり、島津綱久は島津光久の長男。三代になる予定だったものの、父に先立って病死した人物です。
江戸中期の薩摩藩主たち(島津綱貴ほか)
「曽我兄弟」の供養塔の近くにも、島津家の墓所があります。一の橋から奥の院に入った場合、最初に目にする島津家墓所です。 ここには江戸中期の藩主たちが集まっています。
ここでは、第3代藩主・島津綱貴について少しご紹介します。
島津綱貴は島津義弘の孫、島津光久の、さらに孫にあたります。綱貴の時代、薩摩藩は幕府からの命を受け、大地震の被害を受けた江戸の復興事業、寺社の造営などを行いましたが、そのために藩の財政は危機的な状況に陥りました。 しかし、ハゼや茶の栽培など、農業の生産力を高めることで、何とか財政をもちこたえさせます。 江戸時代の薩摩藩は、このような財政危機と富国政策の繰り返しでしたが、その結果、2世紀後の革命を実現させるエネルギーが蓄えられたとも考えられます。 明治維新は、幕府からの圧迫を受けながらも、薩摩藩の維持を成功させた島津綱貴から始まっていたのかも知れません。 吉良義央(「忠臣蔵」の敵役で、赤穂浪士に討たれた吉良上野介)の娘を妻に迎えましたが、この結婚は長続きしませんでした。もし続いていたら「赤穂浪士討ち入り」に薩摩藩も関わった可能性もあるといいます。