空海と「薬子の変」-血みどろの権力闘争に深く関わった密教-
「利他主義」の理想と現実 -仏教界はなぜ権力と結びついたのか-のページでは、仏教における利他の実践が、菩薩の博愛主義から権力者との協力にまで広がったことを説明しました。 「利他」を追求した結果、世俗権力との結びつきを深めた仏教。しかし権力には闘争がつきものです。 空海も、天皇をはじめ朝廷との関係を築き、その支援を受けて利他を実践。しかしその代償として、「薬子の変」という血みどろの権力闘争に巻き込まれました。 空海は、この矛盾にどう向き合ったのでしょうか。
血みどろの権力闘争と密教
実は空海が「密教」を旗印に各地で大掛かりな福祉活動を実施できた背景には、権力者たちが繰り広げた血みどろの権力闘争があります。 当時の天皇は、まだ後世のようなお飾りではなく、自らが絶対権力者でした。絶対権力を維持するためには、どんな手段を使ってでも、ライバルを陥れなければなりません。場合によっては兄弟を死に追いやることもしたのです。 しかし、その結果生まれた血みどろの怨念に、自ら手を汚した天皇はもちろん、その後継者たちも苛まれることになりました。
怨霊の筆頭格の一人が、平安京を開いた桓武天皇の弟、早良親王(崇道天皇とも)。桓武天皇に対する謀反に関わったとして流罪になり、配流される途中に「何らかの理由で」死に至りました。 そして、その後相次いだ皇太子や妃の死、疫病、洪水などの天災が、早良親王の祟りだと言われるようになります。後の三大怨霊(菅原道真、平将門、崇徳天皇)を凌ぐとも言われる大怨霊伝説の誕生です。 この祟りから何とか逃れたい(でも敵対していた奈良仏教には頼りたくない)と思った桓武天皇が助けを求めたのが、密教でした。 もともと天皇は「神祇信仰」という別の宗教のリーダーであり、天照大神の子孫であることを権力の拠り所にしていました。しかし世俗権力のリーダーとしては仏教の方が使い勝手がよかったため、「神と仏は同じものですよ」という理屈で一つにしようとしていました。それでも、神祇信仰と仏教は本来、まったく違う性質を持つ宗教なので、いろいろと摩擦が起きていました。 しかし密教の祈りの対象は、大日如来という、天照大神と同じ太陽神系のシンボルです。しかも神祇信仰の祈祷とも通じるものがある「加持祈祷」という神秘的な儀式によって、現世に利益をもたらしてくれるといいます。 変幻自在であり、どんな土着信仰でも飲み込むという大乗仏教の性質が、特に強く出ているのが密教でもあります。これを導入すれば、神仏習合は成功できるのではないか。そして自信を失いかけていた天皇の祈祷能力に、あらたな力を与えてくれるのではないか。 弟を事実上殺害した桓武天皇や、その息子である嵯峨天皇はそう考え、国を挙げて唐から最先端の密教を学ぶことにしたのです。その指導役を託されたのが「新進気鋭の革命家」最澄と、「天才プロデューサー」空海でした。 自らも革命家だった桓武天皇は、顕教・密教を問わず仏教に次々と新風を吹き込んでくれる最澄を重用。一方で嵯峨天皇は、ビジュアル的に分かりやすい曼荼羅を活用し、難しい言葉を多用せずに密教を教えてくれる空海を深く信頼し、ついには自ら空海の弟子にまでなりました。
「薬子の変」の大怨霊候補が聖者に?
その後、新たな大怨霊が誕生してしまいそうな危機が訪れます。 嵯峨天皇が兄であり先帝でもある平城上皇と対立。平城上皇側によるクーデター未遂事件が発生したのです。「薬子の変」と呼ばれるこの事件、クーデターは未遂に終わったものの、平城上皇の寵臣、藤原仲成が処刑され、愛妾の藤原薬子が服毒自殺に追いやられるなど、血なまぐさい結果をもたらしました。 さらに当時、皇太子に建てられていた高岳親王は平城上皇の皇子だったため、皇太子をクビになってしまいました。また新たな火種が生まれたということになります。 こういった火種を煽ることで勢力をのばしてきた「藤原氏」という人たちもいますし、次のクーデターを防ぐためには、平城上皇と高岳親王を「何とか」しなくてはなりません。このクーデター未遂事件は「薬子の変」の名称で知られてはいますが、中心にいたのは平城上皇です(最近では「平城太上天皇の変」という名称の方がふさわしいと言われています)。高岳親王も、騒ぎを起こすために担ぐ対象としてはもってこいです。藤原仲成と薬子がいなくなれば決着という話ではなかったのです。 ここで、空海の受容力が大きな役割を果たします。空海は嵯峨天皇に対し、平城上皇を仏門に入れるよう進言。その後、平城上皇も、廃太子の高岳親王も、自らの弟子にしてしまいます。 平城上皇は、その後は穏やかな人生を歩みました。一方で「真如」と名を変えた高岳親王は、空海の教えを積極的に学び、高僧として名を高めていきます。そして密教の奥義を求めて唐に渡り、さらにインドに向かう途中で客死しました。怨霊になるかも知れなかった悲劇の廃太子は、空海の十大弟子の1人とまで言われる「聖者」になったのです。 空海の弟子としては2人の先輩である嵯峨天皇も、父の桓武天皇と同じような道を歩まずにすみました。絶対権力者たちの血みどろの抗争を、空海はその全員を弟子にすることによって、解決してしまいました。 次のページ権力闘争から離れて高野山へ-空海が「即身成仏」に託した願い-