空海の一代記-伝説化した「虚空の哲人」の実像-

日本を代表する宗教都市・高野山を開創し、後に「弘法大師」となって伝説化した空海は、どのような人生を歩んだのでしょうか。 「虚空の哲学」を確立し、絶対権力者を弟子にすることで多くの人を救った「天才プロデューサー」の功績を、歴史的な視点から見つめます。

真言宗の開祖であり、高野山を開創した空海は、日本の仏教史上最大級の宗教家です。真言宗の信徒に限らず広く敬われ、親しみをこめて「弘法さん」「お大師さん」と呼ばれてきました。 「弘法大師」とは、入滅から86年後に醍醐天皇が贈った諡号(しごう、死後に贈る美称)です。 空海が活躍したのは、平安時代の初期のことです。時代の転換期にあって、唐から密教のみならず最新の技術・学問をもたらし、時の権力者たちとも密接に関わり、新しい時代の精神的支柱を築き上げました。

少年時代

空海は宝亀5年(774年)、讃岐の豪族・佐伯田公(さえきのたぎみ)の次男として、今の香川県善通寺市で誕生しました。 15歳の時、長岡京に上京し、叔父の阿刀大足(あとのおおたり)に論語など漢籍(漢文の書籍)を学びます。 18歳になると当時官吏養成の最高機関だった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、引き続き漢籍を学びました。

修行時代

20歳になった頃、空海は大学を中退し、仏門の道に入ります。 「空海僧都伝」によると、大学では昔の人の搾りかすのようなものしか学ぶことができず、まったく役に立たないとの考えからだったようです。 ただし当時は正式な僧侶になるには官許が必要だったため、私度僧(自称の僧侶)として修行を始めました。 旅の行者から「虚空蔵求聞持法」を授かり、四国で求聞持法を修行したと伝えられています。 虚空蔵とは知恵や記憶に利益をもたらす菩薩で、求聞持法とは真言(翻訳されていない仏の言葉)を、一定の作法で100日間かけて100万回唱えるという修法です。 『三教指帰』には、空海が室戸岬の洞窟で求聞持法を修めるうちに、明星が口に飛び込み、悟りを開いた(求聞持法を会得し、無限の智恵を手に入れた)と記されています。そこから見えるのは空と海だけだったため、空海と名乗ったそうです。 若き日の空海は、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねたようですが、はっきりしたことは分かっていません。しかし、この頃の空海の足跡を弟子たちが辿ったのが、「四国八十八ヶ所」のお遍路の原型とされています。

唐への留学

延暦23年(804年)、31歳になった空海は遣唐使に選ばれ、渡航の直前に東大寺戒壇院で得度受戒しました。この時、ようやく正式に出家し、正規の僧侶になったのです。 自称の修行僧だった空海が遣唐使に選ばれた経緯についてはよく分かっていませんが、いずれにせよ空海は正規の留学僧となり、20年滞在する予定で唐に渡りました。 同じ遣唐使のメンバーには、後に天台宗の開祖となった最澄、空海や嵯峨天皇と共に三筆と称されたものの、藤原氏との政争に敗れて失脚した橘逸勢(たちばなのはやなり)などがいます。 長安に着いた空海は、金剛頂経・大日経という2系統の密教を統合した第一人者であり、皇帝からも師と仰がれていたインド僧の恵果(えか)に師事します。恵果は空海に、胎蔵界・金剛界・伝法など密教の全てを教え、灌頂(かんじょう、戒律や資格を授けて継承者とする儀式)を授けました。そしてその4ヶ月後に亡くなります。空海は、密教の8代目の正当な後継者となりました。 死を目前にした恵果が、1000人以上の弟子の中から空海を継承者とした理由としては、空海の才能に着目したということもあったのでしょうが、唐では真言密教の衰退が始まっていたため、新天地である日本での密教の発展を願っていたためとも考えられます。 恵果の入寂後、空海は越州(現在の紹興)に移り、土木技術や薬学など様々な分野の学問・技術を学んでいます。 そして延暦25年(806年)8月、遣唐使判官の高階遠成の遣唐使船に便乗し、帰国の途につきました。 20年の予定に対しわずか2年間の留学となりましたが、その成果は大きく、空海は自ら「虚しく往きて実ちて帰る」と語っています。

闕期の罪

無事に帰国した空海ですが、留学期間を早く切り上げすぎたため、「闕期(けっき)」という罪に問われます。長期滞在の留学生(るがくしょう)として派遣された空海は、本来であれば次の遣唐使(20年後)まで帰ることは許されませんでした。 空海は、持ち帰った教典や仏具の目録を朝廷に提出し、「これだけ貴重なものを持ち帰り、新たな知識を日本で広めるために、少しでも早く帰りたかったのだ」と弁明します。 それでもすぐに許しは出ず、空海は3年にわたって太宰府や和泉に留まることになります。時の帝・平城天皇が仏教に興味を示していなかったこととも関係があると言われます。ようやく入京が許されたのは、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した大同4年(809年)のことでした。

空海と最澄

京に入った空海は、高雄山寺(今の神護寺)の住職となります。高雄山寺は和気清麻呂が開基した和気氏の氏寺です。和気氏は当時、天皇の側近として権勢を誇っていました。 和気氏はこれ以前に最澄の庇護者ともなっており、高雄山寺の住職もそれまでは最澄が務めていました。 最澄(伝教大師・767年~822年)は、天台宗の開祖で、空海と並ぶ平安仏教の巨人です。 最澄は12歳で出家し、17歳で度縁(どちょう・正式な僧侶の証明書)の交付を受けています。長い間(国家から見て)自称の僧侶に過ぎなかった空海とは対照的に、仏教界のエリートでした。 延暦7年(789年)、比叡山に小さな草庵(一乗止観院または比叡山寺、後の延暦寺)を作り、修行に明け暮れていたところ、平安京の造営にとりかかった桓武天皇の目に止まります。比叡山は新しい都の鬼門の方角にあるため、そこを護る国家鎮護の寺を必要としていたためです。 更に最澄は、官僚化した南都(奈良の平城京)の僧侶たちに批判的だったため、奈良仏教の政治介入を排除するため遷都に踏み切った桓武天皇にとっては最高の人材でした。 そのため桓武天皇は最澄に帰依し、比叡山寺は官寺となります。桓武天皇の側近、和気広世も最澄を積極的に支援しました。広世の父、和気清麻呂が奈良仏教の「怪僧」道鏡によって辛酸をなめさせられたこともあり、和気氏も奈良仏教からの脱却を求めていたのです。 そして延暦23年(804年)、空海と同じ遣唐使船(ただし、乗った船は別でした)に乗って唐に渡ります。空海が長期の留学生(るがくしょう)だったのに対し、最澄は短期で帰って来られる還学生(げんがくしょう)という特別な待遇でした。 唐に着いた最澄は天台山に登り、天台教学を学びました。漢語はできなかったため、弟子の義真に通訳をさせています。正統天台の付法と大乗戒を受けた後、帰りの船の出発を待つ1ヶ月半を利用して密教も学びましたが、密教を身に付けるには期間が短すぎました。 帰国すると、桓武天皇は最澄が本格的に学んだ天台宗ではなく、ついでに持ち帰った密教の方に興味を示しました。(最澄の没後、天台宗にも密教が取り入れられますが、本来の天台宗に密教的要素はありませんでした) 桓武天皇はかつて、藤原氏と組んで政敵の他戸親王、井上内親王、早良親王などを死に追いやったことがあり、その後都で発生した怪奇現象は彼らの怨霊によるものだと考えていました。密教には呪術的要素があるため、桓武天皇は密教で怨霊を鎮めることができるのではと、期待をかけたのです。 桓武天皇は延暦25年(806年)に亡くなりますが、朝廷はその後も怨霊を恐れ、密教を求め続けます。しかし最澄の密教についての知識は中途半端なものだったため、当惑します。 そんな時に、密教の正統な後継者となった空海が数々の貴重な教典とともに帰国してきたのです。朝廷に重用されてきた最澄に対し、空海の身分ははるかに低いものでしたが、最澄は密教については空海の方が長じていると認め、空海に対して弟子の礼をとり、高雄山寺住職の地位も譲りました。 空海が持ち帰った教典や法具の価値が認められ、闕期の罪が許された背景にも、最澄の尽力があった可能性が指摘されています。和気氏も、空海を最澄と同じように庇護するようになりました。 しかしやがて空海と最澄の仲は決裂し、二人は別の道を歩むことになります。 書を借りようとした最澄に空海が「行を修めず、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすべきではない」と拒絶したことや、最澄が派遣した弟子が空海に師事してしまい、最澄のところに戻ってこなかった話が有名ですが、最大の原因はやはり教義の違いにありました。 最澄が説いたのは、「道はそれぞれでも、精進すれば誰でもいつか仏になれる」という「法華一乗」。それに対し空海は、「世界の有り様全てが仏であり、それをあるがままに受け入れ、同調していけば、現世がそのまま浄土となる」という「密厳浄土」を説きました。 「法華一乗」が輪廻が循環するうちにいつかは成仏できるという意味であるのに対し、空海の教えは現世にいながら、生きたまま成仏できるとし、現世を強く肯定したのです。

空海と嵯峨天皇

高雄山寺に入った空海は、ほどなくして嵯峨天皇と深い交流を持つようになります。 嵯峨天皇は後に、空海や橘逸勢と並んで「三筆」に数えられるほどの書の達人でした。そのため、空海が唐から持ち帰った書にも強い関心を示し、空海自身にも、屏風への揮毫などを頼みました。 この頃、嵯峨天皇は平城京への還都(都を平城京に戻すこと)を求める実兄の平城上皇との対立に頭を悩ませていました。嵯峨天皇は、兄を唆しているのは側近の藤原薬子や藤原仲成だと考え、彼らを密教で調伏して欲しいと空海に依頼します。 翌年の弘仁元年(810年)には、嵯峨天皇は空海を南都・東大寺の別当に大抜擢しました。東大寺を頂点とする南都仏教勢力は、南都の復活を目指す平城天皇側につく恐れがありました。嵯峨天皇はそのトップに空海を送りこみ、その知恵と対応力で味方につけようとしたのです。 南都仏教勢力側も、最澄に対しては強い反感を持っていたものの、奈良仏教に批判的ではなかった空海は喜んで受け入れました。空海を支持することで、最澄の影響力を相対的に弱めようと考えていたためです。 追いつめられた平城上皇と藤原薬子、藤原仲成は、ついに東国での挙兵を企てました。通称「薬子の変(平城太上天皇の変)」です。 嵯峨天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂に出兵を命じる一方で、空海に勝利の祈祷を依頼しました。素早い対応が功を奏し、藤原仲成は射殺、藤原薬子も自害し、平城上皇の挙兵は未然に防がれます。平城上皇は出家しましたが、関係者には寛大な処置がとられました。 多くの血を流すことなく難局を乗り切った嵯峨天皇は、空海の調伏や祈祷、そして東大寺別当としての働きが大きかったと信じました。 その後空海は高雄山寺に戻り、全山を挙げて大がかりな天下泰平の祈祷を開始します。嵯峨天皇は強く感動し、空海に対する信頼と尊敬は動かぬものとなりました。

高野山開創

弘仁6年(815年)頃、『弁顕密二教論』を著し、独自の真言密教を確立した空海は、その集大成のため、若いころに修行した高野山に道場を作ろうと考えるようになります。 翌年、弘仁7年(816年)、空海は嵯峨天皇に高野山造営の願いを届出ました。嵯峨天皇は快諾し、異例の早さで空海に高野山が下賜されます。 このように天皇の全面的なバックアップを受けていた空海ですが、最澄の比叡山のように都の近くではなく、遠く離れた紀伊の山奥を選んだのは、国家権力とある程度の距離を保つためだったと考えられます。権力とは移ろいやすいものであり、空海は権力者に近づきすぎることの危険性も感じていたはずです。 天皇の許可が下ったとは言っても、当時、高野山の辺りは天野で祀られている丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)の神域であり、丹生一族が領していました。しかしこの丹生一族も空海を歓迎し、帰依したと考えられています。「空海は狩場明神の案内で丹生明神に会い、高野山を譲られた」という高野山の開創伝説がそのことを象徴しています。 丹(辰砂、硫化水銀)を扱う丹生一族にとって、水銀の精錬などに通じた空海は憧れの存在だったのかも知れません。そもそも空海が高野山を道場の場所に選んだ理由の一つは、唐に渡る以前から交流があり、おそらく支援も受けていた丹生一族の土地だったことだと思われます。 空海は早速、弟子の実恵(じつえ)や泰範(たいはん)を天野と高野山に派遣し、伽藍造営の下準備にとりかかりました。ちなみに泰範は最澄の愛弟子で、その後継者とも目されていましたが、最澄と袂を分かち空海の弟子になった人です。 空海自身が高野山に入ったのは、弘仁9年(818年)のことです。そして、今の根本大塔の辺りで、密教の作法で結界を作り、諸魔を排除し、地鎮を行いました。そして丹生一族の神である丹生明神、狩場明神を勧請します。空海は密教の伝統に則り、土着の信仰を取り入れることをまったく厭いませんでした。高野山は神仏習合の霊場としてスタートしたのです。

満濃池のダム造営

高野山の造営を開始したとはいえ、空海自身がずっとそこに留まったわけではありません。弘仁10年(819年)に伽藍建立に着手した空海は都に戻り、引き続き高雄山寺の運営や東大寺の密教化、宮中での公務、著述・編纂などに携わります。 弘仁12年(821年)、空海は故郷・讃岐での大掛かりな土木工事も指導しています。灌漑用水の満濃池が決壊したため、これをアーチ型のダムに造り替えたのです。 空海は讃岐中から人を集めさせ、密教の修法で工事の成就を祈り、2ヶ月で完成させたと伝わっています。もっとも、工事の全てを空海が指導して2ヶ月で完成させたわけではなく、決壊を防ぐために最も重要な堰の工事で、唐で学んだ土木技術が生かされたと考えるのが自然です。

東寺別当

弘仁14年、退位を目前にした嵯峨天皇は空海に東寺を与え、国家鎮護の寺に相応しい寺にして欲しいと依頼します。 桓武天皇が平安京を造る際に建立させた東寺には、平安京の左京(東側)を護る王城鎮護の役割と、東国を護る国家鎮護の役割を持っていましたが、未だ伽藍は未完成でした。 空海は嵯峨天皇の願いに応え、東寺で講堂や五重塔の建立に着手します。講堂の設計では、須弥壇の上に金剛界の五仏と五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天という21の彫像が並び立つ立体曼荼羅で、仏による国家鎮護を体現化。五重塔も、密教ならではの様式で設計しました。 ただし、空海は天長8年(831年)に病を発し、その翌年から入定まで高野山に隠棲したため、東寺伽藍の完成を見ることはありませんでした。

入定・即身成仏

天長8年(831年)、悪性の皮膚疾患を発症した空海は、天長9年(832年)から穀物を絶ち、高野山で坐禅三昧の日々を送ります。 そして承和2年(835年)、弟子達に遺告を与えた後、長い瞑想に入るため姿を消しました。 これは「空海の入定」または「即身成仏」と呼ばれ、真言密教では特別な意味を持っています。 現在でも、弘法大師御廟には毎朝6時に食事が届けられ、維那(いな)と呼ばれる僧侶が世話をしています。御廟の中の様子は、維那以外は知ることができません。 次のページ曼荼羅の意味をひもとく-哲学的な男女合体「金胎不二」とは?-