なぜ残虐行為に駆り立てられたのか-文禄・慶長の役での悲劇-
高野山・奥の院には、文禄・慶長の役(豊臣の朝鮮出兵)にまつわる供養塔があります。 「鬼島津」島津義弘が立てた、敵と味方の兵士を一緒に供養する「高麗陣敵味方供養碑」です。 島津義弘は、どんな思いをこめてこの供養碑を立てたのでしょうか?島津家の朝鮮半島での戦いから、義弘とその兵たちが直面した悲劇を考えます。
高麗陣敵味方供養碑
奥の院のほぼ中央にある密厳堂から参道を少し進むと、左側に石の鳥居と案内板がついた墓所が見えてきます。
これは高野山奥の院で3つめの、島津家の墓所です。
この鳥居をくぐる前に、まずはその右手前にある石碑に注目してみましょう。「武士道」という概念の、多面的な性質をよく現している石碑です。 この石碑は「高麗陣敵味方供養碑」と呼ばれます。 「高麗陣」とは、豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄・慶長の役のこと。「朝鮮出兵」とも呼ばれます。ポルトガル人が日本に持ち込んだ唐辛子を朝鮮半島に伝え、白キムチが赤キムチになる原因の一端を担ったと言われる一方で、日本史の最大の汚点のひとつとなり、その因果は現在の日韓関係にも暗い影を落としています。
秀吉に屈した島津家が背負った宿命
この東アジア大戦は1598年、秀吉の死によって終結しました。この供養碑はその翌年、1599年に島津家(島津義弘・忠恒父子)によって建てられたものです。つまり鳥居の向こうにある墓所よりも先に建てられたことになります。 この文禄・慶長の役では、島津家は非常に複雑な立場におかれていました。 あと一歩で九州を統一しそうだった島津家は、1586年~87年の秀吉による九州平定に敗れて降伏。それでも秀吉が、島津家による薩摩・大隅の統治を許した背景には、島津家の強さを明や朝鮮との戦いに生かしたいという思惑もありました。 しかし島津家の内部からは、「われわれの願いをくじいた秀吉のために、なぜ明・朝鮮なんかと戦わなければならないのか」という反対の声が挙がります。 そのため派兵の準備は進まず、ついには「梅北一揆」という反乱まで起き、島津四兄弟の三番目、島津歳久が自害に追い込まれるという事態も招きます。 こういった事情を知った明は、島津家自体に反乱を起こさせて秀吉勢の後方を撹乱しようとしますが、島津家は明の誘いに乗ることはありませんでした。島津家は逆に、明に対して「朝鮮が日本側についた」と虚偽の情報を流します。この情報によって混乱した明は、素早く朝鮮への援軍を出すという決断ができなくなりました。 こうして、前半の文禄の役において、島津家は「明の参戦を遅らせる」という戦略上では最大の功績を果たしたものの、島津義弘の出兵が大幅に遅れたため、同じ九州の加藤清正、小西行長、黒田長政、鍋島直茂が行った快進撃に参加できず、武家としての面目を失いました。 明・朝鮮との戦いに励むことは島津家の生存条件。このままではすみません。 そのため後半の慶長の役が始まると、再び朝鮮半島に渡った島津義弘は、朝鮮水軍を壊滅させた漆川梁海戦、南原城の戦いなどで死闘を繰り広げます。特に1597年の「泗川の戦い」では「20万(実際には3万程度)」の明・朝鮮連合軍に対して7千の兵で大勝利をおさめ、「鬼石曼子(グイシーマンズ・鬼島津)」の武名を轟かせました。
庶民出身の兵が奴隷狩りを?
しかしその過程で、義弘に率いられた島津の兵たちは、深い「業」を背負うことになります。 豊臣秀吉、そしてその命を受けた島津義弘は、兵たちに対し、朝鮮半島での「乱妨取り(乱取りとも。戦闘後の略奪行為のこと」や「人狩り(女性や子どもなどを誘拐し、奴隷として売り飛ばすこと)」を禁止していました。そんなことをしたら、民の恨みを買って支配が難しくなるし、その土地の生産力が落ちて支配する意味さえ薄れてしまうからです。 しかし兵たちには、別の事情がありました。彼らは、戦乱の世に巻き込まれた庶民の出身です。そして彼らにとっての「戦乱」とは、「奪われるリスク」と同時に「奪うチャンス」をもたらすものでもありました。 つまり生き延びるためには、田畑を耕しているだけではだめで、生死を賭してでも戦闘に参加し、戦闘後の略奪行為に励むしかない、と考える人が多くなっていたのです。わずかな財産も受け継ぐことができない次男以降には、特にそういう傾向がありました。 武将たちも、兵たちをしっかり統率し、精力的に戦わせるために、乱妨取りや人狩りのネガティブな効果を分かっていながら、黙認せざるを得ませんでした(または、武将自らが略奪や誘拐を推奨し、収益の上前をはねていました)。 島津・上杉・武田など、強兵で鳴らした大名の根拠地は、いずれも当時はコメが十分に生産できなかった、という共通点があります。 「上杉謙信は奴隷を獲得するために関東に出兵した」という説は現在では否定されつつありますが、「強さを維持するために、兵のハングリー精神を利用していた」ということまでは否定できません。 島津家による九州制覇についても、ポルトガルの宣教師が以下のように記録しています。
『島津の兵たちは、豊後で捕虜にした人たちを肥後で売り飛ばした。しかし奴隷を買った肥後の人たちは、飢饉で養うことができなくなり、家畜のような状態で島原半島につれていき売却した』 『豊後の美しい娘2人が、大阪の商人によって売春をさせられている。彼女たちは大友家が(島津家によって)滅亡寸前になったときに奴隷となり、大阪に売り飛ばされたらしい』
出典: ルイス・フロイス『日本史』このように日本国内ですら、戦闘に伴う奴隷狩りが常態化していたのですから、言葉が通じない朝鮮半島に連れて行かれた兵たちがどう考えたか、だいたい想像がつきます。 実際に、特に島津の兵たちによって、朝鮮半島で激しい奴隷狩りが行われたことが記録されています。それを知った秀吉も、最初は石田三成を通して、島津義弘に「奴隷狩りや略奪をやめさせるように」と注意しましたが、最後にはあきらめたのか、諸将に対し「ある程度戦功を挙げた奴なら、多少は奴隷狩りを認めてやる」「もし奴隷の女の中にいい人材がいたら、俺にも分けろ」と通達するようになります。
「耳鼻削ぎ」が横行した理由とは
諸将が自らの武功を証明する手段は、通常であれば敵の首の数だったりするのですが、秀吉と官僚たちに見せるために、大量の首を海を超えて運ぶのは大変です。そこで、耳や鼻の数で証明してもいい、ということになりました。 すると、戦闘で討ち取った敵兵の耳・鼻に、一般人の耳や鼻を混ぜてもばれないだろう、と考える武将たちも出てきます。戦功を水増しするため、村で略奪を行う際、奴隷としては売れなそうな人(おそらく高齢者や激しく抵抗する男性など)を殺害して耳や鼻をそぐ、という行為が常態化したのです。 島津家では、泗川の戦いにおいて、4万人近い敵兵を討ち取ったと記録しました。しかしこのときの明・朝鮮連合軍の兵力は3万人足らずだった可能性が高いとされています。仮に一人残らず討ち果たしたとしても、計算が合いません。 記録には誇張があるとしても、事実からかけ離れたことを言いふらしても笑われるだけですから、ある程度の「証拠」には基づいているはず。果たしてその「証拠」は、どのように作られたのでしょうか・・・
「元寇」における高麗軍の悲劇
ところで、これよりも3世紀ちょっと前に、文禄・慶長の役における島津家と同じような立場に立たされた国家がありました。 文永・弘安の役(1274年・1281年)、いわゆる「元寇(蒙古襲来)」における高麗王国です。襲来してきた「元軍」の兵の多くは、実は自分たちもモンゴル帝国の襲来を受け、屈服させられた高麗の人々でした。 モンゴルが高麗を滅ぼさなかったのは、日本への侵略に利用するためだったとも言われます。実際、高麗王は滅亡を免れるため、モンゴル皇帝の指令に積極的に従いました。 侵略の準備のために送られてきたモンゴルの兵たちを養ったり、大量の軍船を急造するために、高麗の民から人員や牛などの強制徴用を行ったのです。その結果、高麗の人たちはまともに農耕ができなくなり、草や木を食べて飢えをしのぐしかなかったと記されています。 そして「世界最大の艦隊」ができあがって日本侵略の準備が整うと、3世紀後の加藤清正・小西行長・黒田長政にあたるモンゴル直属の武将たちが率いる兵だけでなく、島津義弘・鍋島直茂・立花宗茂・大友義統にあたる現地軍(つまり高麗軍)も大量にかり出され、海峡を渡りました。 主な戦場は対馬や壱岐など九州北部でしたが、彼らは船酔いに苦しみながらも緒戦には勝利。戦闘後には、かなり残虐なことが行われたようです。 日蓮は対馬の惨状についての伝聞を、「島民は全て殺されるか、生け捕りにされた。奴隷にされた女性たちは手に穴を開けられ、(その穴に縄のようなものを通して?)船に繋がれた」と書き残しています。 高麗の歴史書にも「キム・バンギョンが率いる高麗軍が対馬の島民を皆殺しにした」と記されています。 それを行った兵の多くは、「究極のハングリー精神」を溜め込んでいた高麗の庶民たちです。彼らは皇帝・クビライの強引な遠征計画と、それに協力せざるを得なかった高麗王の生存戦略に巻き込まれた犠牲者でもありました。 高麗の人たちは、自分たちを飢えさせる原因となったハリボテの船に強引に乗せられ(または人によっては、人身売買などで稼ぐ目的で積極的に参加し)、戦闘後にさんざん「悪行」を重ねたあげく、最期には玄界灘に沈んでいったのです。 「クビライ」を「秀吉」に、「高麗」を「島津家(など九州土着の大名家)」に、「高麗の民」を「薩摩(など九州各地)の庶民」に置き換えると、侵略の方向が逆なだけで、ほぼ同じようなことが起きていたことになります。
島津義弘が願った「救済」とは
歴史上では、最も虐げられた人たちが、後には加害者として最も残虐なことをしてしまうという負の連鎖反応が、ずっと繰り返されてきました。現代史でいうと、アウシュビッツからガザへの連鎖も、そのひとつだととらえることもできます。 しかしその渦中にいた人たちこそ、業を重ねると同時にではあれ、何とかこの連鎖が終わってほしいと、強く願ってきたのではないでしょうか? この「高麗陣敵味方戦死者供養塔」には、「高麗の陣中で討ち死にした敵味方の兵士を仏道に入れるために供養する」と書かれています。後世になると、この供養塔は「敵味方関係なく救済を願う日本の武士道の美しさ」の象徴として称えられるようになります。 しかし、これを建てさせたのは、「武士道」の美しい側面しか見なかった、江戸中期の官僚化した「武士」ではなく、「戦争とは何か」を誰よりもよく知っていた島津義弘です。 島津家の存続のために奮闘した島津義弘でしたが、そのために自分たちが背負った業の深さに、恐れおののいてもいたはず。供養の対象には、「敵軍の兵士」という名目で殺害した一般人も入っていたと考えても、おかしくはないはずです。 明治時代に日本が国際赤十字条約に加盟する際も、この供養塔は、日本には戦国時代から赤十字精神があったことの現れだとされました。 確かにそういった側面も否定はできません。そして、その精神が形成される上では高野山も大きな役割を果たしていました。しかし戦国武将たちの「救済への願い」には、別の背景もあったのです。