法然・親鸞・法明と真言密教-高野山から巣立った革命家たち-

覚鑁(興教大師)の密教革命 -鎌倉仏教の先駆者による挑戦-のページでは、形骸化した真言密教を哲学として再生させようとした、平安時代後期の取り組みについて紹介しました。 覚鑁の改革は、浄土宗の開祖、法然や浄土真宗の宗祖、親鸞によって受け継がれました。法然や親鸞は、密教を否定し、庶民にとってより分かりやすい教義を広めていきます。 しかし彼らが否定したのは、形骸化し貴族文化に溶け込んでいた密教であり、空海の哲学や手法については、多くを受け継いでいました。 融通念仏宗の中興の祖、法明も、空海に似たビジュアル的な手法を活用し、布教に成功しました。

「浄土宗の開祖」法然は高野山で何を学んだか?

高野山奥の院の加賀前田家供養塔から少し進んだところに、「法然上人圓光大師墓所」と書かれた標柱が立つ立派な墓所があります。

浄土宗の開祖、法然。死後、圓光大師(円光大師)と名づけられました。 法然は初期の鎌倉仏教を代表する人物で、真言密教は旧宗教として打倒する対象でした。「密教はエリートのための宗教にすぎない」「即身成仏では大衆を救えない」と批判しています。 しかしそんな法然も、人生で最も活発な時代、つまり20代から40代にかけて高野山に籠もっていたことが分かっています。 それは1160年代の前後。つまり密厳堂の場所に住んでいた宗教改革の先駆者・覚鑁が追放されてから20年ほど経った時期にあたります。 当然、高野山に籠もりながら、覚鑁の哲学について聞いたり考えたりしたことでしょう。そして、真言密教の僧侶同士の内乱(高野山と根来山の抗争)も直接見ていたはずです。 こうした高野山での体験が、「密教の否定」という形をとったとはいえ、浄土宗の形成に大きく影響したことは疑うべくもありません。 法然や、その後継者の親鸞、そして更に強烈な革命児だった日蓮の思想には、形式とは別のところで、空海や覚鑁の考えが大いに取り入れられていると考えられるのです。

「浄土真宗の宗祖」親鸞

東日本大震災物故者慰霊碑からさらに南へ、駐車場に向かって進むと、右手(駐車場から来た場合は左手)の少し高くなっている場所に「親鸞上人霊屋」があります。

浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、法然の弟子でした。浄土宗の発展に力を注ぎましたが、新しく宗派をつくるつもりはなかったといいます。しかし鎌倉時代末期、親鸞の曾孫にあたる覚如が本願寺(浄土真宗)をつくり、その教えは強力な教団によって全国に広がりました。 その後本願寺は2派に分かれましたが、そのどちらも、現在でも日本の仏教で最も多い門徒を持つ宗派となっています。

「ビジュアル系プロデューサー」法明

曾我兄弟の供養塔から少し参道を進むと、「法明上人供養塔」があります。

法明(ほうみょう)は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した僧侶で、高野山で修行した後に「融通念仏宗」という宗派の中興の祖とされています。 「融通念仏宗」とは浄土教の一派。「ひたすら念仏を唱えることで浄土に行ける」と説いています。平安後期に広がりましたが、鎌倉時代にはいったん衰退。それを再興したのが法明です。 南北朝の戦乱で苦しんでいた人たちに希望をもたらすため、阿弥陀仏が菩薩を従えて迎えに来るシーン(極楽往生)をビジュアル化し、演劇のようなイベント(聖聚来迎会・しょうじゅらいごうえ)でビジュアル化して見せたことで、念仏集団を再生させました。 真言密教と教義は違っても、その目的と手法については、空海に通じるところがある人物です。 真言密教とは-神秘に包まれた人生哲学の起源-