覚鑁(興教大師)の密教革命-鎌倉仏教の先駆者による挑戦-

伝説化された空海 -即身成仏の脚色と弥勒信仰との融合-のページでは、空海入定後、その哲学がどのように脚色され、変容したかを解説しました。 形骸化した真言密教は厳しい批判にさらされますが、実は高野山の内部にも、真言密教を哲学として再生しようという僧侶たちがいました。 その代表的な人物、覚鑁(興教大師)について解説します。覚鑁の改革は失敗に終わりましたが、その後の鎌倉仏教の礎を作ることにもつながりました。

「密厳堂」と覚鑁

高野山・奥の院のほぼ中心にある密厳堂(みつごんどう)

奥の院(柴田勝家~密厳堂)

ここには、平安時代後期の高僧、覚鑁(かくばん、興教大師、1095-1144年)が祀られています。

覚鑁は高野山の座主として活躍しましたが、後に追放されて根来寺を開創した人物です。 20歳で高野山に入った覚鑁は、やがて高野山の堕落ぶりを嘆くようになります。当時の高野山の上層部は世俗権力と癒着し、信心が薄く、食べるために出家した僧侶も数多くいました。 そんな中で覚鑁は大伝法院を建立し、金剛峯寺の座主(高野山のトップ)に上り詰めます。 空海の入定以降、真言密教は空海の伝説化や密教の神秘的・形式的な面ばかりが発展し、思想面では停滞していたのですが、覚鑁がリーダーになってようやく、哲学としての真言密教が息を吹き返します。

覚鑁の密教改革

覚鑁が生きた平安時代後期は、末法思想が流行し、「もう現世はだめだ、阿弥陀様にすがって、来世で浄土に連れて行ってもらうしか救済の道はない」という絶望感が広がっていた時代です。高野山の奥の院が発展した背景にも、この考え方がありました。 覚鑁はこの浄土信仰と、空海の思想を一体化させることにします。浄土信仰という時代の流れに逆らうべきではない。しかし今流行している浄土信仰は、あまりにも現世を、そして人間の自発性を否定しすぎている。現世と人間をあれほどまで肯定した空海の思想を、浄土信仰という新しいバージョンで蘇らせるべきだ、と考えました。 そのためにまず覚鑁は、真言密教の根本仏・大日如来と、浄土信仰の救世主・阿弥陀如来が同じものだと言って一体化させます。「浄土」についても、大日如来が作った「密厳浄土」と、阿弥陀如来が作った「西方極楽浄土」の間に違いはないといいます。 そして、「現世を嫌って極楽を求め、人間としての自分自身を嫌って仏ばかりを尊ぶのは、無明であり、妄想である。たしかに現世は醜いことも多く、世も末のように見える。しかし本質を見つめ続ければ、その現世を仏の世界に変えてしまうことも可能だ」 と主張し、「浄土への逃避」という傾向が強かった消極的な浄土信仰を、「自らの努力によって現世に浄土を実現させよう。現にこの高野山奥の院で、弘法大師がそれを実現しているではないか」 という積極的な浄土信仰に転化しようとしたのです。

焼き討ちと追放、そして宗派対立

しかし高野山の内部でも、覚鑁のこの斬新的な考え方を理解できる人は多くありませんでした。 保守派の高僧に加え、多くの衆徒が反発。そして1140年、覚鑁は居所を焼き討ちされた上で高野山を追放されてしまいます。やむなく覚鑁は弟子たちと共に根来山(根来寺)を開創し、そこで真言宗の建て直しを目指しました。 覚鑁の死後、その弟子たちは師匠を追い出した高野山との抗争に明け暮れ、一時は衆徒同士の合戦にも至ります。こちらの後継者たちも、空海や覚鑁の思想の真髄を受け継いだとは言えなかったのです。

武装勢力となった覚鑁の後継者たち

さらに室町時代、根来山は高野山や比叡山と同じような一大宗教都市となり、戦国時代になると根来衆と呼ばれる僧兵1万を擁し、最先端の鉄砲技術を持つ軍事勢力として影響力を拡大します。 そして、根来衆の鉄砲隊としての能力に注目した織田信長と協力関係を築きますが、信長の死後、徳川家康に通じたことから羽柴秀吉の紀州攻めを招き、徹底的に破壊されました。 こうして根来山は滅亡しましたが、江戸時代になると、紀州徳川家の藩祖・徳川頼宣の庇護により、新たな根来寺として再生しています。 覚鑁の密教改革は、とても成功したとはいえない結果となりました。しかしその哲学は大きく形は変えながらも、平安末期から鎌倉時代にかけての宗教改革に大きな影響を与えました。そのため覚鑁は、鎌倉仏教の先駆者とも呼ばれています。

「覚鑁坂」の和解

密厳堂は1667年に、覚鑁に思いを寄せる高野山の僧侶たちが、寄付を出し合って建てたといいます。 中世の真言密教を、空海の教えとは全く違う方向に変えてしまった高野山と根来山の対立。5世紀の年月を経て、この密厳堂においてようやく解消されたのです。 この辺りの石段が「覚鑁坂」と呼ばれているのは、この覚鑁にちなんでいます。 次のページ法然・親鸞・法明と真言密教-高野山から巣立った革命家たち-