徳川頼宣の大陸派兵計画国内の安定には対外戦争が必要?
高野山奥の院に墓所がある徳川頼宣。 徳川頼宣(とくがわ よりのぶ 1602年~1671年)は徳川家康の10男で、高野山がある紀伊の国を支配した紀州徳川家の藩祖です。生まれたタイミングが遅かったため、先輩の戦国武将たちに比べると知名度は落ちます。 しかしこの「遅れてきた戦国武将」は、家康の武将としてのDNAを最も強く受け継いだ息子です。クーデター未遂事件で失脚しなければ、東アジアの歴史を大きく変えていたかも知れない人物なのです。
家康に溺愛された冒険少年・徳川頼宣
徳川頼宣が生まれたのは関ケ原の戦いから2年後の1602年。家康がもうすぐ還暦を迎える年の息子であり、兄の徳川秀忠とも20歳近い年齢差があります。家康は、孫といってもいい頼宣を非常に可愛がりました。 大阪の冬の陣では、12歳で初陣を飾ります。その際、家康は頼宣の鎧初め(最初に鎧をつける儀式)を自らの手で行ったそうです。 翌年の大阪夏の陣では先陣を希望して重臣たちに却下されますが、涙を流しながら「私の14歳(数え年)は二度とこない!先陣をやらせてくれ!」とせがみ、そのことを聞いた家康は「その発言こそ手柄だ」と言って称賛したと伝わっています。
和歌山がみかんの名産地になったのは頼宣のおかげ?
それから4年後の1619年、17歳になった徳川頼宣は、高野山がある紀伊の国の統治を任されます。紀州徳川家の始まりです。 領内の生産力を向上させようと考えた頼宣が目をつけたのが「みかん」です。紀伊の国は山が多く、人口に対して耕地が不足。とくに中部と南部では、多くの領民が貧困に苦しんでいました。しかしみかんの栽培であれば、山がちな地形をむしろ利用することができます。 徳川頼宣が積極的に奨励したことにより、有田川一帯などでみかんの集団的栽培地域が次々とつくられました。こうして「温州みかん」の代表格のひとつ、「有田みかん」が普及していきます。 和歌山県が、愛媛県、静岡県と並ぶみかん三大産地となった背景には、徳川頼宣の貧困対策があったのです。
「紀州の名君」から「浪人の首領」へ
戦乱の世は大阪夏の陣で終わりましたが、当時はまだ浪人も多く残っており、内乱の火種は各地でくすぶっていました。高野山がある紀州(紀伊)も、もともと国人(豪族)たちの独立志向が高く支配が難しい国でした。 その紀州の藩主となった徳川頼宣は、和歌山城と城下町を整備した他、国人を懐柔する対策を講じたり、優秀な浪人を召し抱えて浪人の失業問題の解消に取り組んだりします。 その結果、頼宣は不満を抱える全国の浪人たちに慕われるようになり、幕藩体制内の「武断派」の代表格になっていきました。
クーデター未遂事件で失脚
そうした中で起きたのが1651年の「慶安の変」。いわゆる「由比正雪の乱」です。これは、徳川家光の厳しい統治により多くの大名家が改易され、生活苦に苦しんでいた浪人たちによるクーデター未遂事件でした。 クーデターに失敗し、自決した由比正雪の遺品の中から、なんと徳川頼宣のから書状が見つかります。幕府は、「クーデター計画の黒幕は武断派の代表格、徳川頼宣なのか?」と疑心暗鬼にかられました。 実際には、徳川頼宣の書状は偽造されたものであり、クーデター計画については関わっていなかったようです。 頼宣は「黒幕とされたのが自分で良かった。幕府の実力者である自分がクーデターを起こす必要はなく、ありえないからだ。もし外様大名が疑惑の対象になっていたら、また藩の取り潰しなどで大量の浪人が発生し、混乱が起きるところだった」という言い方で、幕府の追及を何とか跳ね返します。 それでも、この事件によって頼宣の政治的な地位は失墜しました。もはや幕府の政策に影響力を及ぼすことはできなくなったばかりか、10年もの間、領国の紀州に帰ることすら禁じられてしまったのです。 ところで、この頼宣の失脚と帰国の禁止については、「慶安の変」そのものとは別の権力闘争があったと見られています。 その背景にあったのが、この時期、激動の渦に巻き込まれていた中国大陸の情勢です。幕府内では、「漢民族の英雄」鄭成功との共闘をめぐる意見の対立が起きていました。
日本と「明」が組んで清を倒す?鄭成功と徳川頼宣の挟撃計画
「慶安の変」から7年前の1644年、中国では明が滅亡します。その後満州族の清が華北(中国北部)の支配をかためますが、華中・華南では漢民族の抵抗が続いていました。 明の再興をめざす漢民族たちが頼りにしようと思ったのが、半世紀前に朝鮮半島で死闘を繰り広げた日本の軍事力です。戦国の世が終わってからも、日本の浪人たちは東南アジアなどで傭兵として活躍していました。鉄砲など、当時最先端の武器も豊富にありました。 江戸幕府がその猛者たちや武器を組織的に送り込めば、清を挟み撃ちにして打倒する(少なくとも満州に追い返す)ことは十分に可能だと考えられたのです。 明の滅亡の翌年(1645年)、福建省で抵抗活動のリーダーとなっていた鄭芝龍が、江戸幕府に軍事支援の要請を行います。鄭芝龍はかつて平戸を拠点に海賊(貿易商)のリーダーとして活躍していたこともあり、日本人とのネットワークも豊富でした。息子の鄭成功も日本人とのハーフです。 しかし幕府は、鄭芝龍からの要請を却下します。「徳川四天王」の一人である井伊直政の後継者、井伊直孝が「大陸派兵は鎖国政策と相反するし、秀吉のような火遊びをしても泥沼にはまる」と主張し、その意見が採用されたのです。 井伊直孝は徳川秀忠から家光を後見するように命じられた「最初の大老」で、家光が成長してからも絶大な信頼を受け、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱などとともに幕政を任されていた実力者でした。朝鮮通信使に対しても幕閣の代表として対応しており、「総理大臣兼外務大臣」のような人物です。 その井伊直孝に却下されても、鄭芝龍、そしてその抵抗運動を引き継いだ鄭成功は諦めず、さまざまなルートで日本への支援要請を繰り返しました。鄭成功たちが「日本乞師(にほんきっし)」と呼ばれる派遣要請を続けた背景には、幕府内にも援軍の派兵に前向きな人たちがいたこともありました。その代表的な人物が徳川頼宣です。 紀州藩の領国では、かつての鄭芝龍と同じように武装商団として名を馳せた熊野水軍がいます。熊野水軍などを通して、鄭芝龍と徳川頼宣との間に何らかのパイプがあったことも考えられます。 明が親日的な政権として再興すれば、キリスト教国に対しては鎖国をしていても、中国との交流が盛んになり、海上交易の要衝である紀州にとっては特にメリットがあります。 しかし頼宣が援軍派遣に賛成の意を唱えた理由は、それだけではありませんでした。 「戦国武将の心」を持つ徳川頼宣は、家光の政策によって仕事を失った浪人たちに何とか活躍の場を与え、失業問題と社会不安を解決したいと考えていたのです。 「社会を不安定化させるエネルギーを外国に向ければ、国内がまとまって秩序が保たれる」という、半世紀前の豊臣秀吉や、三世紀後の「帝国陸軍」の将校たちと似たような発想だったのかも知れません。それに頼宣自身も、少年時代の大坂の陣で味わった「血の騒ぎ」を忘れられなかったことでしょう。
「由比正雪の乱」によって潰えた日清戦争の計画
そして1651年、鄭成功と徳川頼宣にとって大きな転機が訪れます。徳川家光が死去したことをきっかけに、幕府内での権力闘争が活発になったのです。 将軍職を継いだ徳川家綱はまだ11歳。井伊直孝や松平信綱の政治力の根拠であった家光もいなくなったことで、幕府は絶対権力者が不在の状況になりました。 そんな中、家康の息子である徳川家の長老・徳川頼宣の存在感が高まっていきます。頼宣が井伊直孝・松平信綱を退け、幕府の実権を掌握すれば、浪人たちを大陸に送る計画が実現するかも知れません。 そんな中で発生したのが、由比正雪たちによるクーデター未遂事件「慶安の変」でした。浪人たちの行動は、彼らを助けようとした徳川頼宣を失脚させ、救済策であった派兵計画を潰すという、皮肉な結果をもたらしたのです。 一方の鄭成功は1658年に北伐を開始し、しばらくは快進撃を続けましたが、南京での清との決戦で敗北。北伐作戦は失敗に終わります。 その後の鄭成功は台湾を占拠し、地方政権を樹立。現在の台湾のような状況になりました。 徳川頼宣が紀州に帰ることができたのは、たとえ紀州藩が独自の援軍派兵を決めたとしても、鄭成功との共同作戦ができる情勢ではなくなってからのことでした。つまり、鄭成功が「清の打倒」に最も近づいていた10年間に、徳川頼宣は紀州への帰国を禁じられていたのです。 こうした経過を見れば、亡き家光の鎖国政策を支えた幕閣たちが、大陸への派兵を食い止めるために、由比正雪への偽書状を利用して徳川頼宣を失脚させた可能性も否定はできません。少なくとも、派兵以外の政策をめぐっても徳川頼宣と対立していた松平信綱は、由比正雪の門人としてスパイを送り込んでいたことが分かっています。 もっとも松平信綱は、「うるさい長老である徳川頼宣と浪人たちを大陸に送り込んで、一緒に自滅してもらおう」と考えていたという説もあります。たとえそうだとしても、「慶安の変」によって浪人たちは頼宣を巻き込む形で勢力を失い、その必要はなくなりました。 いずれにせよ、もし由比正雪のクーデター未遂事件とそれに続く政変がなかったら、そして鄭成功と徳川頼宣による清への挟撃作戦が実現していたら、その後の日本と中国の歴史はどうなっていたのでしょうか?
仏教の庇護者でもあった徳川頼宣
こうした勇ましい?エピソードで知られる徳川頼宣ですが、仏教への思い入れも強く、寺院などの復興を積極的に行いました。豊臣秀吉の紀州征伐によって滅亡した根来寺(高野山から分派し、戦国時代に一大勢力を築いた「新義真言宗」の寺院)も、徳川頼宣の支援によって復興することができたのです。 その真言宗の本家である高野山も紀州に位置していたため、徳川頼宣とは深い関わりがあったと思われます。国人たちに対する高野山の影響力は、徳川家の紀州統治を安定させるために、大きく生かされたのではないでしょうか。
高野山奥の院の「徳川頼宣供養塔」
高野山の徳川頼宣供養塔は、奥の院の西側エリア、一の橋と中の橋のちょうど中間あたりの「紀州初代藩主徳川頼宣墓所」の中にあります。 奥の院の歴史探索-高野山に眠る武将や僧侶、女性たちの物語-