- 高野山の歴史探訪 -

三密の修行とパスカル哲学

宗教都市・高野山で生み出された真言密教には、どのような哲学があるのでしょうか。 このページでは、即身成仏のために行われる「三密の修行」とパスカル哲学との共通点について考えます。

PAGE NAVI

「三密」の修行とは

空海の「即身成仏」の第二段階も、信仰者としてのパスカルとの共通点がみられます。 空海は、人が第一段階で既に「成仏」しているにも関わらず、悩み苦しみ続けているのは、「既に成仏していること」に気づかないからだと説きました。つまり「成仏の第二段階」に進むために必要なことは、第一段階の成仏について気づくこと、ということになります。 そのために空海が推奨したのが、「三密」の修行です。もちろん、この「三密」は「密集・密接・密閉」の「3密」とは違います。 「三密」とは「身密」「口密」「意密」のこと。つまり身体の状態と、口にする言葉と、心情を整えるということです。具体的には、手に印を結び、口では真言を唱え、心では大日如来の姿を思い浮かべます。身体と口、心の動きを通して仏を受け止めれば、成仏の第二段階に進むことができると言うのです。 確かに、自らを非日常的な状態において、「"色 = 虚空"」とか「E=mc²」とか、なにか壮大なことに思いを馳せているとと、日常生活や人間関係の些細なことで悩むのが馬鹿らしくも思えてきます。つまり「虚空とは何か」がはっきりとは分からなくても、ある程度追求するだけで、一時的にではあっても「煩悩」をコントロールできるのです。 それまでの仏教では、身体や口や心情は、煩悩のもとであるとして、「三業」と否定的に呼んでいました。しかし空海は、この3つでさえも「仏」そのものなのだから、肯定的に活用するべきだと言います。この場合の「密」というのは、理性では解釈できない存在という意味です。

PAGE NAVI

「三密」の修行とパスカル

パスカルは、「イエス・キリストを知る者は、すべてについての根拠を得る」と言っていました。キリストを通して神とつながることによって、人間の存在が根拠を得られ、悩みや不安から解放されるということです。 身体の動きや口にする言葉、一体化する対象を呼ぶ固有名詞は全く違うものの、行動の本質や目的とするところは、空海と同じだったのではないでしょうか。 三密の修行をそのまま実践するのは抵抗感がある人でも、信仰の対象が何であるにせよ、その意義については理解できるのではないかと思います。

PAGE NAVI

スピノザ、キェルケゴール、ニーチェと空海

空海の思想を浮かび上がらせる「異界の哲学」は、パスカルだけではありません。 17世紀オランダの哲学者、バールーフ・デ・スピノザは、「神は無限である」ということを広い視点で見つめ直しました。 スピノザと空海 19世紀デンマークの哲学者、セーレン・キェルケゴール。パスカルの系統を受け継いだ彼の「不安」と「絶望」の哲学からも、「虚空の哲学」との共通点を見出すことができます。 キェルケゴールと空海 そして19世紀後半のドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェ。「神は死んだ」の「虚無主義者」が書いたことは矛盾に満ちていますが、その思想は20世紀の哲学のさきがけとなりました。 そしてこの異端児の思想からも、空海の思想との大きな共通点を見出すことができるのです。 ニーチェと空海 ここに挙げた哲学者たちは、宗教的な観点から見ると全く違うことを語っているように見えますが、「自己」をどうとらえるか、という点については、それほどの違いはなかったようです。 相容れない哲学の共通点