徳川家霊台(高野山)-「西の東照宮」で家康と密教の関係を探る-
「徳川家霊台」は、高野山にある徳川家康・秀忠父子の霊廟です。重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されています。 江戸時代、ここは徳川家康を神として祀る場所として、日光の東照宮と同じような役割を担っていました。江戸幕府と密教、そして神道との関わりを知る上で、非常に興味深い史跡です。 徳川家霊台の歴史的・宗教的な背景を解説します。
徳川家霊台の概要や交通案内、拝観料金、時間などについては、「Zue Maps」のページで案内しています。 徳川家霊台への行き方 徳川家霊台の拝観料と入場時間は? 「徳川家霊台」観光のポイント
徳川家霊台の略史
徳川家霊台は、2代将軍・秀忠が亡くなった翌年の1633年、3代将軍の徳川家光によって造営が開始され、1643年に完成しました。徳川将軍家が財力を注ぎ込み、当時最先端の装飾技術を駆使し、10年の歳月をかけて創り上げた「西の東照宮」で、近世日本の霊廟の中でも、代表的な建築のひとつと評価されています。 江戸時代には、家光以降の将軍や御三家を祀る尊牌堂(そんぱいどう)もあり、日光の本家「東照宮」を思わせるような場所だったと思われます。 父が神、息子が仏として並んで鎮座している「徳川家霊台」。江戸時代初期までの感覚では何も問題もありませんでしたが、明治に入ると「神仏分離」のターゲットにされ、いったん荒廃します。 東側にはかつてもありましたが、明治21年(1888年)に焼失。さらに唐門も撤去されましたが、1962年にもとに戻されました。
高野山にとっての「徳川家霊台」
高野山は、豊臣秀吉から強い庇護を受けましたが、そのことは豊臣家の滅亡後は、江戸幕府との関係を損ねる「負の歴史」となりました。 江戸幕府が推進した「本末制度」によって総本山の高野山は利益を享受しましたが、一方で没収された寺領もあり、これ以上幕府との関係を悪化させることは何としても防ぎたいところです。そのため徳川家霊台は、高野山にとっても、江戸幕府との関係を改善するために極めて重要な施設となりました。 鎌倉時代における金剛三昧院と同じように、武家政権下において、高野山の生存と繁栄を守る役割を担っていたのです。
仏教を骨抜きにした江戸幕府と密教
それでは、江戸幕府の側は、高野山や密教についてどのように考えていたのでしょうか? 初代将軍・徳川家康は、若い頃に一向一揆との戦いに苦しみ、武装して武士に立ち向かってくる仏教勢力の解体を強く望んでいた人物です。 権力を掌握してからは、本願寺を東西に分裂させた他、仏教排斥を主張した儒学者・林羅山をブレーンとし、寺院に対する厳しい統制を始めました。 家康・秀忠・家光・家綱という4人の将軍の治世で成立した「本末制度」「寺請制度」などにより、寺院は幕府の統治機構に組み込まれていきます。人々から宗教の自由は失われ、僧侶たちも新しい哲学を考える方向性を失い、中世には最先端の哲学だった仏教は、懐古主義的・形式主義的な「葬式仏教」に変わりました。 林羅山は、この4人の将軍たちの政策に大きな影響を与え、朱子学を幕府の官学にすることにも成功しました。 しかし、家光までの3代の将軍たちの精神的な指導者は、林羅山ではなく、ある密教僧でした。 南光坊天海(1536年?~1643年)。その1世紀以上に及ぶ人生は波乱と謎に満ちており、かつては「明智光秀の後半生か?」という俗説までありました。 天海の絶対権力者に対する精神的影響力は、さすがに道鏡ほどではありませんが、嵯峨天皇を弟子にした空海、そして後醍醐天皇を弟子にした文観と比肩できるものでした。家康から「俺が死んだ後、どんな神にするのか決めてくれ」と言われ、「東照大権現」に決めたのは天海です。 江戸の都市計画にも陰陽道・風水の立場から深く関わっており、天海の影響が現在の東京の形や祭りにも残されていると言われています。 朱子学を思想の柱とし、仏教は国家管理の道具でしかなかったはずの江戸幕府の将軍たちが、なぜそれほど密教僧を重用したのでしょうか?
徳川家康にとっての密教は、最先端の医学だった?
108歳まで生きたと言われる天海は、将軍たちから健康の秘訣を問われ、二つの言葉(歌)で答えました。 「気は長く 務めはかたく 色薄く 食細くして 心広かれ」 「長寿は粗食 正直 日湯 だらに(だらり) ときおり下風あそばされかし」 前者は徳川家康への答えで、勝海舟が父から授けられた座右の銘「気は長く 心は広く 色薄く 勤めは堅く身をばもつべし」とも似ているように、幕府の旗本たちにも大切にされた言葉です。 後者は徳川家光からどうすれば長生きできるか、と問われた際の答えです。 寛容な気持ちを持つことでストレスを溜めず、しっかり働き、女性も食事もほどほどにしておいて、嘘をついてトラブルを起こさないようにして、毎日湯を浴びて、時々はおならもする。 最後から2つめの「だらに」は、密教の呪文のようなものです。漢字では「陀羅尼」、サンスクリット語では「ダーラニー」と発音します。内容はひたすら仏や菩薩などに呼びかけたり称えたりするものです。 「だらに」には、宗教的な意味とは別に、医学的な効果もあったと思われます。ある程度の長さがある複雑な文章を暗記し、ひたすら音読することは、脳の機能を維持するのに役立つと言われているからです。 これらの「不老長寿の秘法」を、自らの驚異的な長寿によって立証して見せた天海。その言葉は、現代医学の観点から見ても色あせていません。中世から近世にかけての人たちにとって、密教とは最先端の医学でもあったのです。 徳川家康(1543年~1616年)が天下をとることができた最大の理由は、満73歳まで生きた長寿にありました。一方で、江戸幕府が滅亡した主因のひとつは、徳川慶喜を除く末期の将軍たちが短命だったことでした。 政策面では朱子学を柱に据え、仏教を骨抜きにした初期の徳川将軍たち。しかし政権の安定には何よりも欠かせない、支配者個人の心身の健康を保つためには、密教の教えが効果的だと信じていたのではないでしょうか?
「将軍たちの心の師匠」天海にとっての空海
天海は同じ密教でも高野山の真言密教(東密)ではなく、比叡山の天台密教(台密)の僧侶です。 天台密教と真言密教は、大日如来と釈迦如来の関係をどう考えるかとか、どの経典を重視するかとか、師匠がいなくても自分だけで悟れるかどうか、といった教義の違いがあります。 しかし、それらの違いは僧侶にとっては大事なことかも知れませんが、密教を科学として信じた将軍たちにとってはどうでもいいことだったでしょう。 高野山が幕府との関係を改善するため「東照大権現」を招こうと考えた時、仲介を頼んだのは天海でした。そして天海も、自らが所属する天台宗の比叡山ではなく、高野山に徳川家霊廟を建造する事業に尽力したのです。 ひょっとすると天海は、天台宗の祖である最澄以上に空海を尊敬し、「天台宗の空海になりたい」という願いをこめて自分の法名を決めたのでしょうか? そんな想像もできてしまうほど、「空海」と「天海」は法名だけでなく、人生の歩みもよく似ています。 高野山の歴史探索-日本史の動きと深く関わった聖地-