勧学院(高野山)-鎌倉幕府の滅亡に関わった密教修行の道場-

「勧学院」について

高野山・壇上伽藍にある勧学院は、鎌倉幕府が高野山に作った密教修行の道場です。勧学院を創設したのは幕府による寺社・朝廷政策の一環でしたが、その政策は挫折。 やがて、この勧学院をめぐって、後に倒幕のさきがけとも見られる出来事が起きました。 鎌倉幕府の終焉に至る歴史を、高野山の視点から解説します。

勧学院の略史

勧学院は鎌倉時代中期の1281年(弘安4年)、鎌倉幕府の執権、北条時宗が、有力御家人の安達泰盛に命じ、学道研鑽の道場として建立させたと記録されています。同時に「勧修院」という修業の道場も、セットで建てられました。 当初の勧学院・勧修院があった場所は、鎌倉幕府と密接に結びついていた金剛三昧院の敷地内でした。 勧学院の創建から37年後の1318年(文保2年)、後宇多法皇が勧学院を勅願所とする院宣(いんぜん・上皇や法皇の命令のこと)を出しました。勧学院が現在の場所(壇上伽藍の南東端)に移転されたのも、このときのことです。 勧学院は、その後何度も火災で焼失しており、今の建物は江戸時代後期の1813年に再建されたものです。 しかし、正門の様式が奈良時代から伝わる「四脚門」であり、築地塀で囲まれているように、再建にあたっても以前と同じスタイルが踏襲されたと考えられます。鎌倉末期の歴史とともに、中世の高野山の雰囲気を伝えてくれる貴重な史跡です。

勧学院は中世最高峰の「密教大学」だった?

勧学院とは、「勧学会(かんがくえ)」という法会を行う寺院という意味。勧学会は、本来は平安時代に比叡山で行われていた官僚の卵と僧侶の合同の勉強会であり、儒教と仏教が一体化する場でもありました。 鎌倉時代に入ると、勧学会は仏教独自の勉強会になりますが、エリートが集い、最先端の知識を共有しながら高みを目指す場であることに変わりはありませんでした。 高野山の勧学院にも、全国から多くの若者が集まり、「高野版」と呼ばれる経典を教材に使って密教を学んでいました。高野山の学問は「南山教学」と呼ばれていましたが、比叡山が顕教学問の最高峰だとすると、高野山は密教学問の最高峰だったのです。 直感を重視する高野山よりも、文字や理論体系を大切にする比叡山の方が、より「学問的」ではありましたが、高野山も、エリートの養成を通じて全国の寺社に強い影響力を持っていました。 鎌倉幕府が金剛三昧院に勧学院を創建した背景には、高野山の影響力を通じて寺社との関係を深め、支配力を強めたいという狙いがあったのです。

鎌倉中期の最重要人物「安達泰盛」と高野山

この政策を推し進めた中心人物は、当時の御家人の筆頭格だった安達泰盛(あだち やすもり 1231~1285)でした。 安達氏は、源頼朝の宿老、さらに北条氏の盟友・外戚として、北条家に次ぐ勢力を持っていた一族です。特に安達泰盛の祖父、安達景盛(あだち かげもり ?~1248)は北条政権を確立させた最大の功労者。金剛三昧院を拠点にした人物でもあります。詳しくは金剛三昧院のページをご参照ください。 安達泰盛も、妹を猶子として執権・北条時宗の妻にしており、時宗の義兄(形式的には義父)にあたります。源頼朝と北条時政の関係にも似ています。 18歳で執権となった北条時宗は、すぐに「二月騒動」や「元寇」という混乱と危機に直面しますが、それらを乗り越えることができたのは、実質的な後見人であった安達泰盛の政治力があったからでした。 御家人、つまり武士団の代表格であった安達泰盛ですが、その政策の特徴としては、朝廷や寺社との関係を重視していたことが挙げられます。 金剛三昧院のページでも書きましたが、鎌倉時代には、武家政権の支配が全国の隅々にまで及んでいたわけではなく、天皇家や公家、寺社が広大な荘園を維持し、幕府の傘下にある御家人たちに対しても、強い影響力を維持していました。 幕府と朝廷が対立すると、御家人の多くが困った立場に追い込まれます。そのため、御家人たちの意志を代表していた安達泰盛は、3代将軍・源実朝や祖父の安達景盛の政策を受け継ぎ、朝廷と武家の一体化、つまり「公武合体」を進めることで秩序を安定させようと考えていたのです。 安達泰盛が実権を掌握したのは1272年の「二月騒動」の頃です。これは北条時宗が兄を含む政敵を排除した白色テロでしたが、このとき安達泰盛がどんな暗躍をしたのかについては、さまざまな説があります。 しかし、二月騒動の後に泰盛が九州の守護職を獲得して更に勢力を拡大したこと、そして騒動の犠牲者を慰霊するための町石を高野山町石道に立てたことから、何となく推察はできます。 いずれにしても、安達泰盛はこの頃から、祖父の景盛が拠点にしていた高野山との関係を更に深め、寺社や公家との関係を強化していきました。 二月騒動と同じ年、源実朝の正室だった坊門信子(西八条禅尼)は78歳で存命していましたが、寺院や公家たちに対し「武家との間で何か問題が起きたら、夫・実朝を支えた安達景盛の孫、安達泰盛に仲介を依頼するように」と言い残しています。 公家の娘であり、承久の乱以前に実朝が目指した「公武合体の夢」の象徴でもあった坊門信子の言葉は、大きな影響力があったことでしょう。 弘安の役でモンゴル軍が自滅した1281年、安達泰盛は、源実朝の菩提寺である金剛三昧院を、公武合体政策の拠点として整備することにしました。それがエリート養成施設、勧学院と観修院の建立です。表向きには「北条時宗が安達泰盛に命じて建立させた」と記録されている勧学院も、安達家と金剛三昧院の関係を考えれば、安達泰盛自身の意志によって建てられたと考えられます。 「高野山の神」である丹生都比売神が「神風」を起こしてモンゴル軍を撃退したと信じられたことも、この事業を後押ししたことでしょう。 なお、安達泰盛が高野山町石道に建立した町石は今も残っており、泰盛が願主となって開版した経典「高野版」も金剛三昧院に残されています。

安達泰盛の天下統一事業「弘安徳政」とは

1284年に北条時宗が死去すると、安達泰盛はまだ少年の第9代執権・北条貞時(ほうじょう さだとき 1272年~1311年)を支えながら、それまで以上に強い立場で幕政を主導することになりました。そして、「弘安徳政」と呼ばれる大規模な政治改革を行います。 弘安徳政で注目すべきポイントは、 A 形骸化していた将軍の権力を高めようとした B 武家が寺社から簒奪した土地を寺社に返還させた C それまで幕府の傘下にいなかった中小の領主たち(名主職)の立場を幕府が保証し、彼らを取り込もうとした D 河川や港湾で勝手に通行税を徴収することを禁じ、物流を円滑にしようとした ということです。BとCの2つは、主に元寇の舞台となった九州で実施されました。 これらの政策は、一見、将軍や寺社の権力を簒奪してきた東国武士たちの利益に反するようにも見えます。その御家人の代表であった安達泰盛が、なぜこのような改革を行ったのでしょうか? その答えとしては、元寇がもたらした様々な政治危機を解決するため、と説明されることが多いですが、それと同時に、元寇で幕府と西国武士たちとの関係が深まったことを契機に、公武合体政策を一気に進める目的もあったと思われます。 Aの将軍権力の強化については、当時の征夷大将軍が後嵯峨天皇の孫、源惟康(惟康親王)であったことから、これ自体が公武合体の実現につながります。 源惟康は、将軍就任に伴って臣籍降下し、源氏を名乗った「源氏将軍」でした。源頼朝以来、「源氏将軍」とは東国武士と朝廷を結ぶ存在でした。 北条氏を代表とする東国武士たちは、たびたび将軍と対立し排除をしてきましたが、将軍不在のまま、つまり朝廷から切り離された状態で秩序を安定させることはできず、「源氏将軍」の復活は亡き北条時宗も強く望んでいたことでした。 安達泰盛も、皇族であると同時に源氏にもなった将軍・源惟康の力を高めることこそが、秩序を回復させるために有効だと考えたのです。 Bは、モンゴル軍の敗退が寺社の祈祷によるものだと信じられたこともありますが、様々な混乱を起こしていた武士と寺社の対立を、武士の側が譲ることで解消させようとしたものでもありました。 Cは、西国に多かった、幕府ではなく朝廷・寺社に属していた領主たちの取り込み作戦です。Bとは逆の方向性を持っているようにも見えますが、朝廷と幕府、寺社の一体化を、荘園の中小領主たちのレベルでも進めようとしたとも解釈できます。 つまり安達泰盛がめざした公武合体とは、単に朝廷と幕府という二つの権力を一体化させるということではなく、様々な立場に分断されていた武士・領主たちを、「皇族出身の源氏将軍」という旗の下に結集させることが目的だったのです。 Dは、織田信長の楽市・楽座政策にも通じるところがありますが、武士が目先の利益を追及することを禁じ、経済を活性化することで、地域全体の利益を高めようとしたと解釈できます。 この安達泰盛の政策を強く支えたのが、朝廷のリーダーだった「治天の君」亀山上皇でした。亀山上皇も、幕府の「弘安徳政」と連動する形で朝廷内の改革を行い、朝廷の側からも幕府に歩み寄っていたのです。 この「弘安徳政」は、各地で分断が深まっていた日本を再統一し、中央集権国家を作るための、つまり「天下統一」を実現するための中世における最後のチャンスとなりました。

安達泰盛の理想を打ち砕いた「霜月騒動」

御家人の代表であり、北条氏の外戚でありながら、秩序をもたらすためにその既得権益を削減しようとした安達泰盛。北条氏の治世を持続可能なものにするために、不可欠な改革だと考えていたのでしょうが、当然、大きな反発を受けることになります。 そもそも安達泰盛が掲げた理想は、大きな矛盾をはらむものでもありました。 本来、北条得宗家による専制は、安達景盛と安達泰盛が武士たちをまとめる手段として作り上げた体制です。それは秩序を保ち、元寇に対処するためにも一定の効果を挙げましたが、権益には腐敗がつきもの。安達一族も、権益を享受する側でしたが、誰よりも多くの既得権益を獲得したのは、当然、北条得宗家です。 北条得宗家の当主、北条貞時はまだ十代前半でしたが、北条得宗家の被官たちは黙っていませんでした。平頼綱(たいらの よりつな 1241~1293)に代表される御内人(みうちびと、みうちにん)と呼ばれる人たちが、改革に対する最大の抵抗勢力となります。 平頼綱たちは、元寇という戦時体制の中で、得宗権力の行使者として一般の御家人よりも強い発言力を獲得していました。そのため北条時宗の存命中から、御家人を代表する安達泰盛と、御内人を代表する平頼綱の対立は深まっていたのです。 御家人もすべてが安達泰盛に従っていたわけではありません。泰盛の「弘安徳政」に不満を持った御家人たちが、平頼綱を支持する動きもありました。 そして1285年(弘安8年)、平頼綱は執権・北条貞時の了承も得て安達泰盛に対する先制攻撃を仕掛けます。旧暦の11月に起きたため、「霜月騒動」と呼ばれる政変です。安達泰盛と安達一族の主だったメンバーは敗北し、自害、または討ち死にしました。 安達一族の滅亡によって最後の有力御家人がいなくなり、北条氏の専制体制はより強化されたように見えました。しかし、目先の利益に囚われた北条家被官たちのこの行動が、鎌倉幕府の「終わりの始まり」となったのです。

北条貞時と「永仁の徳政令」

鎌倉幕府の滅亡といえば、「太平記」などで描かれた第14代執権・北条高時(ほうじょう たかとき 1304年~1333年)の乱行のイメージが定着しています。 確かに北条高時は病弱でもあり、幕府の危機を乗り越えられる力は持っていませんでした。しかし今では、幕府の体制が実質的に行き詰まったのは、高時の父、貞時の時代だったと考えられるようになっています。高時の「乱行」とされている出来事も、実際には晩年の貞時によるものもありました。 霜月騒動で安達泰盛を滅ぼしたのは平頼綱ですが、それに裁可を与えたのは当主の北条貞時でした。そのときの貞時はまだ13歳で、その後の実権は平頼綱が掌握しますが、北条貞時が成人すると、強圧的な政権運営に失敗した平頼綱は粛清されることになります(1293年の「平禅門の乱」)。 実権を握った貞時は、父・北条時宗を理想像に掲げ、安達泰盛の改革を継承しようと志しました。この時、霜月騒動で失脚した泰盛派の人々が再び登用され、復権を果たしています。 北条貞時が行った改革としては、訴訟制度の改革、九州など西国の国防強化などがありますが、何よりも有名なのは1297年に発令した「永仁の徳政令」です。 この徳政令は幕府の基盤である御家人の救済・統制を目的としたもので、一言でいうと「借金をチャラにして御家人を救済したが、その後借金が難しくなってかえって御家人を苦しめた」ということになります。

鎌倉幕府が破綻した主因とは?

こんな劇薬を投下せざるを得なくなった背景としては、元寇に伴う軍事出費によって御家人が貧困に苦しんだことが知られます。しかしもっと根本的な問題が二つありました。 ひとつは、不動産収入に依存していた御家人たちが、貨幣経済の進展によって相対的に貧しくなったこと。そしてもう一つは、御家人の繁栄が、戦乱による新しい土地の獲得に依存していたことです。 貨幣経済の進展については、貿易黒字によって宋銭が大量に入ってきたことが理由です。つまり、畿内の商人を中心に、不動産収入とは別の手段で富を蓄える人々が増えていたのです。しかし彼らは、幕府の支配構造の外にいる人々です。 商人たちの代表格である「土倉(どそう、とくら、つちくら。金融業者のこと)」の多くは、もともとは僧侶や神職として資本を蓄えた人々であり、延暦寺を代表とする有力寺社が保護していました。 一方で幕府の「身内」である御家人たちは、都市で生活することも増え、それまでのように自給自足ではなく、貨幣を必要とする生活を送るようになります。浪費をした場合はもちろんですが、そうでなくても、物価の変動に伴って土地を担保に入れて借金を重ねることを余儀なくされ、返済ができずに土地を失う事例が増えました。 そしてもう一つは、御家人の分割相続の問題です。戦乱(内戦)があれば、勝者は敗者から奪った土地を複数の後継者に分配し、一族の勢力を拡大することができます。しかし北条得宗家の専制体制が完成して戦乱がなくなると、そのような機会もなくなります。元寇では土地が獲得できなかったのはよく知られる通りです。 土地が増えないのに分割相続を行えば、それぞれの分家が零細化することは避けられません。こうして生活に困った御家人たちは、一族の間で対立を起こしたり、土地を担保にして借金をしたり、土地を売却するようになります。その結果として土地を持たない「無足の御家人」が増えましたが、彼らは「悪党」つまり支配構造の外側に住む人間として武力を行使し、幕府による秩序を崩していくことになります。 実は「永仁の徳政令」は、御家人の救済そのものよりも、こうした土地の質入れや、土地売買を禁じることで、御家人の零細化や「悪党」の発生を防ぐことが最大の目的でした。しかし、それでは借金ができなくなって困るという声が大きかったため、1年後の1298年にその項目が撤廃され、本来は副次的であった「借金棒引き」だけが残ったのです。 それと同時に、土地の細分化を防ぐための単独相続制度も広まりましたが、そうなると今度は、相続ができなかった嫡子以外が窮乏し、その一部が悪党化していくことになります。どちらにしても、武士という存在は「人口が増えれば増えるほど、殺し合わない限り、みんなで貧しくなる」という宿命を背負っていたのです。 これは日本に限った話ではなく、鎌倉時代とほぼ同時期に行われた西洋の十字軍、スペインの「レコンキスタ」、ドイツの「東方植民」も、土地を相続できなかった長子以外の「あぶれ者」たちの、死を恐れないエネルギーが原動力になっていました。 こうした状態で秩序と政権を維持するためには、鎌倉幕府が「武士(地主)だけの政権」から、商人たちもメンバーに取り込んだ新しい経済構造に対応できる政権に脱皮する必要がありました。 そのために最も有効だったと思われるのが「公武合体」です。商人たちを生み出し、その後ろ盾となっていたのは主に有力寺社であり、有力寺社は朝廷・公家と密接に結びついていたためです。 一方で朝廷や公家、寺社も、不動産収入に依存する荘園領主であるという意味では武士と同じであり、権益を守るための武力を必要としていました。亀山上皇と安達泰盛のように、双方の利益になる改革を行うことも可能だったはずなのです。 しかし北条貞時の改革は、あくまで「幕府がいかにして御家人たちを守り、統率するか」という狭い視点で行われたものでした。安達泰盛派だった人々を再登用しても、安達泰盛が掲げた天下統一の理想や、それを可能にする人脈を受け継ぐことはできなかったのです。 改革に行き詰まった北条貞時は、晩年は政治に対する情熱を失い、酒に溺れるようになりました。その結果、得宗の権力も形ばかりのものとなっていきます。 北条高時が継承した頃の鎌倉幕府は、もはやよほどの英主でなければ、立て直すことができない状態に陥っていました。

「霜月騒動」がもたらした朝廷の波乱

今度は、「霜月騒動」の後の朝廷側の動きを見てみましょう。安達泰盛の敗北は、その改革に協力していた朝廷にも波及しました。 霜月騒動から2年後の1287年(弘安10年)、改革を推進していた亀山上皇は、幕府によって「治天の君」としての地位を追われます。息子の後宇多天皇が退位させられ、甥の伏見天皇が即位。これにより院政を行う権限は、伏見天皇の父(亀山上皇の兄)である後深草上皇に移りました。南北朝時代まで続く持明院統と大覚寺統の対立、両統迭立の始まりです。 もっとも、この両統迭立の端緒は亀山上皇と後深草上皇の父、後嵯峨天皇が亡くなった1272年にさかのぼります。「治天の君」だった後嵯峨天皇は、二人の息子のうちどちらを後継者(治天の君)にするか、という判断をくださず、決断を幕府に委ねた形で亡くなったのです。 幕府は亀山上皇を治天の君に選びましたが、このときの幕府の実力者は安達泰盛でした。亀山上皇とと安達泰盛は、政治改革の協力者であっただけでなく、運命共同体でもあったのです。 1290年には、霜月騒動で安達泰盛の側について戦い、所領を失った武士、浅原為頼が、内裏に乱入して伏見天皇とその皇太子を殺害しようとした事件が起きています(浅原事件)。 伏見天皇や有力公家の西園寺公衡は、浅原為頼の背後に大覚寺統の公卿、そして亀山法皇がいると主張。しかし治天の君だった後深草法皇は、その主張を退けます。激しく対立しているとはいえ、弟を「怨霊」にまではしたくなかったのでしょうか。それとも、幕府に介入されすぎることを怖れたのでしょうか。 この事件の裏に何があったかは不明ですが、少なくとも浅原為頼が目的を達成していれば、大覚寺統の利益につながった出来事ではありました。

「密教に傾倒した英主」後宇多法皇

その後、朝廷では「両統迭立」のルールに従って治天の君が何度も変わりますが、1318年に、異色の人物が天皇に即位します。後醍醐天皇です。 そして、後醍醐天皇の即位によって「治天の君」になったのは、「霜月騒動」の後に天皇を退位させられていた後宇多法皇でした。後宇多法皇はそれ以前にも、別の息子である後二条天皇の即位の際に後宇多上皇として「治天の君」になっているので、返り咲いた形になります。 後宇多上皇の最初の院政では、訴訟制度の改革など政治改革を積極的に行い、父・亀山上皇を上回る成果を挙げていました。対立する持明院統の花園天皇が「英主」と称えるほどであり、「中世日本最高の賢帝」とも呼ばれています。 しかし、二度目の院政での後宇多法皇は、周囲から見ると全く違う人物になっていました。真言宗に傾倒する「密教の法皇」になっていたのです。 「英主」だった後宇多上皇が密教に入れ込んだのは、持明院統の後深草上皇の娘でありながら後宇多上皇の寵姫となっていた姈子内親王(遊義門院)が、1307年、に死去したことがきっかけだったと言われます。 確かに後宇多上皇は、姈子内親王の死去から2日後、葬送の日に出家して法皇となっていますが、その3ヶ月前に伝法灌頂という儀式を受けて密教の阿闍梨(師僧)の資格を得ており、もっと複雑な背景があったようです。 密教僧としての後宇多法皇は、「弘法大師伝」などの著作を残しました。1313年には高野山詣でを行っていますが、雷雨の中、失神するほど疲労していたにも関わらず、輿に乗らず歩いて高野山に登ったと伝えられています。

勧学院の移転は倒幕の準備だったのか?

そして1318年、後醍醐天皇の即位によって再び治天の君となった後宇多法皇がまず行ったことは、この高野山の勧学院を勅願所とし、金剛三昧院から壇上伽藍に移転することでした。 勅願所(ちょくがんじょ・ちょくがんしょ)とは、天皇や上皇、法皇などが国家鎮護などを祈願する寺院や神社のこと。つまりこの時から、高野山の僧侶たちは「幕府直属の寺院」ではなく「法皇直属の寺院」で南山教学を学ぶことになったのです。 この移転は、単純に後宇多法皇が密教に入れ込んだ結果だったという解釈もできます。 しかし勧学院を作ったのが安達泰盛だったこと、後宇多法皇の父、亀山上皇が安達泰盛とともに徳政を行った盟友だったこと、後宇多法皇も彼らと同じような理想を掲げて政治改革を推進したこと、安達泰盛を滅ぼした後の鎌倉幕府が、近視眼的な専制政治によって行き詰まっていたことを考えれば、もっと大きな戦略に向けた一手だったと考える方が自然ではないでしょうか。 後宇多法皇が、「来たるべき倒幕に備えて、まずは高野山など寺社勢力を味方につけておく」という意志まで持っていたかどうかははっきりしていません。後宇多法皇は、息子の後醍醐天皇ほど強い倒幕の意志は持っていなかったとも言われます。 しかし結果としては、後醍醐天皇が最初の挙兵に失敗して隠岐に流されていた頃、その息子の護良親王(大塔宮)に倒幕運動の拠点を提供したのは、吉野と高野山でした。 そして倒幕勢力が反転攻勢を始めるきっかけをつくったのも、少年時代に空海の教えを熱心に学んだ真言宗徒、楠木正成だったのです。

源実朝以来の悲願を一気に実現しようとした「建武の新政」

1333年、元弘の乱で勝利をおさめ、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇による新しい政治が始まります。「建武の新政」です。 この新政で後醍醐天皇が目指したのは、源実朝、安達景盛、安達泰盛、亀山上皇、そして後宇多天皇が追求し続けた公武合体の実現でした。つまり、多重な権力構造の一元化を図ろうとしたのです。 そのために、後醍醐天皇は摂政、関白や征夷大将軍を任命せず、自らも院政を行わず、あくまで天皇に権力を集中させようとしました。 しかし権力の集中は、それをしっかり行使できる官僚機構がなければ成り立ちません。後醍醐天皇には、行政機能を育成する時間は与えられませんでした。 新政府には、裁ききれない量の土地所有権の認可申請が殺到。どこが誰の領地かはっきりしない状態となり、武士たちは大混乱に陥ります。そして、失望した武士たちの多くが足利氏のもとに結集。建武の新政はわずか2年半で終わることになりました。 南北朝時代という、60年もの内乱の時代の幕を開けた建武の新政は、急進的な改革が失敗する代表例に挙げられています。 しかし近年、この改革で生まれた法制度が鎌倉時代の政治改革の集大成であったこと、それが室町幕府にも受け継がれていったことに対する再評価が進んでいます。 「建武の新政」は、一種のブルジョワ革命としての側面もありました。後醍醐天皇の倒幕運動を中心となって支えた楠木正成、赤松円心、名和長年などは、武士でありながら商業活動で力を蓄えた、つまり幕府の支配構造から外れた「悪党」だったためです。 そして後醍醐天皇も、「すべての人間は神の下に平等」という一神教のような思想を持ち(ただし、その神とは天皇自身のこと)、出自にとらわれない人材登用を行っていました。 建武の新政は、朱子学を思想のベースにしていることや、ウルトラ保守主義と革新主義が一体となっている点など、5世紀半後に起きた明治維新との共通点も多く見られます。

後醍醐天皇と真言密教

ところで後醍醐天皇には、父の後宇多法皇と同じように、政治改革者としての側面とは別に、熱心な密教信者としての側面がありました。 後醍醐天皇を描いた肖像画として最も有名なのは、時宗の総本山、清浄光寺(神奈川県藤沢市)が所蔵している「絹本著色後醍醐天皇御像」です。ここに描かれた後醍醐天皇は、通常の肖像画ではあり得ない「異形の姿」になっています。 出家をしていない現職の天皇でありながら、法衣である袈裟を身にまとい、手には密教の法具を持っています。そして頭上に日輪を載せた冠が乗っています。 世俗権力のトップリーダーでありながら仏でもあり、さらには神でもあるという、すべての力を結集した存在となっているのです。 この肖像画を描いたのは、後醍醐天皇の側近として力をふるった真言宗(および真言律宗)の僧侶、文観房弘真です。1339年、後醍醐天皇が亡くなった1ヶ月後に完成しました。 肖像画で描かれているのは、1330年に後醍醐天皇が瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)という儀式を受けたシーンだといいます。この儀式を執り行ったのも、肖像画を描いた文観本人でした。瑜祇灌頂は、「密教の最高到達点」とされる儀式。即身成仏の一歩手前です。権力者に対する特例ではあったとはいえ、後醍醐天皇はそれなりの密教の修行を行った末に、この儀式を受けることができたといいます。 文観は、「三尊合行法」という革新的な密教理論を完成させたこと、天皇を密教に帰依させ自らの弟子にしたこと、新田開発や治水のための土木事業で多くの成果を挙げたこと、絵画など芸術面でも才能があったことなど、空海にも比肩する(記録に残る限りでは、宗教と思想の面を除けば空海をも上回る)マルチな才能を発揮した人物です。 倒幕運動においても政治的な能力を発揮しており、楠木正成を後醍醐天皇に引き合わせたのも文観だったと言われています。 建武の新政では、文観は、真言宗の分派とも言える真言律宗の出身でありながら、天皇の権力によって真言宗のリーダー、東寺の長者にも就任しました。これも、空海が東大寺の別当になったことと重なります。実際に文観は、「祖師再生(弘法大師の再誕)」とも称されました。 しかし高野山を中心とする従来の真言宗の僧侶たちは、平民の出身である文観がトップになったことに対して激しく抵抗しました。後醍醐天皇は、他にも身分にとらわれない抜擢人事を行っており、様々な軋轢を生んでいたのです。 北朝側の視点から書かれた「太平記」では、文観は後醍醐天皇を悪の道に引きずり込んだ妖僧として描かれ、髑髏の儀式や性秘儀を行う「彼の法」集団や、「真言立川流」とも混同して伝えられました。 20世紀後半の有名な著作でも、文観はそのイメージを基にした評価がされています。しかし21世紀に入ってからの研究により、「彼の法」と「真言立川流」そして文観の一派はそれぞれ別個であったという説が有力になっています。 後醍醐天皇の密教への傾倒や、文観の存在をどう評価するべきかは、今も研究が進んでいる途上であり、はっきりしたことは言えません。 しかし密教の拠点である高野山が、金剛三昧院と勧学院を通して、北条政子、源実朝、安達景盛、安達泰盛、そして後宇多法皇という鎌倉時代を代表する政治改革者たちと極めて深い関わりを持っていたことは確かです。 失敗に終わったとはいえ、後醍醐天皇が彼らの改革の集大成を実現しようとしたことを考えれば、「密教への傾倒」という怪しげな言葉も、別の意味合いで評価することも可能かも知れません。 後醍醐天皇は密教に加えて朱子学の信奉者でもありました。中国の宋で生まれた朱子学は、もともとは仏教に批判的な儒学者たちの思想でしたが、それを最初に日本に伝えたのは真言宗の僧侶です。その後は臨済宗を中心に広まりました。 朱子学(および朱子学から派生した国家神道)と仏教は、江戸時代や明治時代初期には激しく対立することになりますが、この時代の日本では共存していたのです。 関連ページ金剛三昧院(高野山)-鎌倉幕府との接点だった世界遺産の宿坊-