長尾晴景の知られざる奮闘-上杉謙信の兄は名君だった?-

上杉謙信(長尾景虎)の腹違いの兄、長尾晴景(ながお はるかげ 1509年?~1553年)といえば、凡庸かつ軟弱な当主で、越後の内乱に対しなすすべがなかったため、家臣たちにより隠居させられたというイメージが一般的です。 しかし近年、実は長尾晴景は越後の内乱を収束させ、伊達家による侵略の試みもうまく退けた果敢な武将だったのではないかという見方も出てきています。 確かに、信頼性が高い記録から長尾晴景が統治した時期の出来事を見てみると、彼は戦場での活躍こそしていないものの、柔軟かつ果敢な外交戦略を駆使し、越後の安定と独立を保つことに成功しています。 上杉謙信が戦国武将として飛躍する礎を作った、兄・長尾晴景の知られざる奮闘を探ってみましょう。

謎に包まれた長尾為景の晩年

長尾晴景の功績を判断するためには、彼がどういう状況で父から家督を継いだのか、ということが非常に重要な要素になってきます。 長尾晴景と上杉謙信の父、長尾為景(ながお ためかげ 1486年~?年)は、主君である越後守護と、主家の筆頭格である関東管領を事実上殺害するという、典型的な下剋上を行った武将です。15世紀前半の越後の歴史では、最重要ともいえる人物。 それにも関わらず、為景の晩年はあまりにも多くの謎に包まれています。彼がいつ長尾晴景に家督を譲り、いつ死去したのかが、未だにはっきりとは分かっていないのです。 いったいどんな事情で、晩年の記録があやふやになってしまったのでしょうか?

矛盾する2つの記録

長尾為景は、越中の一向一揆との戦いで戦死したという伝承もあります。富山県砺波市には彼のものとされる「長尾塚」もあり、その説を取り入れた歴史小説もありますが、これは1506年(永正3年)の「般若野の戦い」で戦死した為景の父、長尾能景(ながお よしかげ 1464年~1506年)と混同された可能性が高く、現在ではほぼ否定されています。 研究者たちが採用しているのは、天文5年病死説、または天文11年病死説です。 上杉家(米沢藩)が編纂した「謙信公御年譜(上杉家御年譜の一部)」によると、長尾為景は天文5年(1536年)8月に隠居し、入道。その後も実権を握り続けていたものの、4ヶ月後の天文5年12月(1537年2月)に死去し、林泉寺に葬られたと記録されています。 従来はこの説が有力だったのですが、近年、高野山清浄心院が所蔵する「越後過去名簿」の記録により、為景が死去したのは天文11年12月(1543年1月)だった、という説が有力になっています。 なんと、死去の年が「正史」の記録よりも6年も後だったというのです。 隠居した年についても、天文9年(1540年)だったという説を唱える研究者もいます。 「越後過去名簿」は同時代の供養の際に記された故人のデータ(過去帳)であり、江戸時代前期の1696年(元禄9年)に編纂された「謙信公御年譜」よりもはるかに史料価値が高いとされます。 また、1540年には後奈良天皇が出した綸旨へのお礼として、為景名義で朝廷への献金がされています。

天文11年病死説の疑問点

「そこまで証拠がそろっているなら、天文11年死去ということでいいじゃないか」と思われるかもしれません。 しかし天文11年説には、長尾景虎(上杉謙信)が1556年の出奔時に書いた書状の内容と照らし合わせると、大きな疑問点があります。 景虎によると、長尾為景の葬儀の際、近くまで敵が迫っていたため、彼も甲冑を着け、剣を持って参列したというのです。 しかし天文11年12月(1543年1月)ごろに、長尾家の本拠地がある府内の周辺で戦闘があった気配はありません。 為景の死去に乗じて誰かが挙兵したとか、守護方の勢力が長尾晴景と戦ったという記録もありません。 せいぜい、伊達家から養子を入れるかどうかを巡って、上杉定実と長尾晴景の間で口喧嘩があった程度です。その数カ月後に、へそを曲げた上杉定実が隠居を表明しましたが、仲直りして撤回したようです。 1543年は伊達家の内紛「天文の乱」が発生した年で、それに連動して越後でも何らかの反乱が起きています。その反乱は鎮圧され、鎮圧に貢献した安田長秀という武将に知行が与えられていますが、その際の書状から、戦闘があったのは越後北部であり、長尾晴景と守護が結束して鎮圧を命じたことが推定できます。 一方、長尾為景の葬儀が行われたのが1537年2月であれば、三分一原の戦いから1年も経っておらず、「越後享禄・天文の乱」もまだ収束していないので、府中の近くまで敵が迫る状況になることは多いに考えられます。 景虎の文章には「幼稚の時分に父を失い、古志郡に向かった」という記述もあり、それが1543年の栃尾城入りのことであるならば、天文11年病死説の方が有力になります。 しかし彼は、幼少期に林泉寺から栃尾の瑞麟寺に移り、そこで学問を学んだという伝承もあるので、決定打にはなりません。 戦国武将にとっての13歳は、元服して大人になる年齢です。それを景虎が「幼稚の時分」と表現しているというのも、少し違和感があります。 長尾為景がいつ死去したかはともかく、いつ政務から離れたかは、長尾晴景という武将を評価するためには、非常に重要なことです。1536年から1543年にかけて、長尾家は2つの重要な方針転換を行っているためです。 まず、1536年に長尾家で何が起きたのかを見てみましょう(史料と照らし合わせる場合は旧暦がいいのですが、西暦の方が時の流れを把握しやすいので、原則として西暦を優先します)。

謎の大決戦「三分一原の戦い」

1536年(天文5年)4月、長尾為景と、上条定憲(じょうじょう さだのり)が率いる反為景勢力との間で「三分一原(さんぶいちはら)の戦い」という決戦が行われました。 上条定憲は、長尾為景に傀儡化されたあげく幽閉された越後守護・上杉定実(うえすぎ さだざね ?~1550年)の兄弟とみられ、1530年から8年間続いた大乱「越後享禄・天文の乱」で為景と戦い続けてきた人物です。 1536年の時点で、越後北部、中部の豪族の多くが上条定憲に味方しており、長尾家は滅亡直前まで追い詰められていました。 決戦の場所(現・上越市頸城区下三分一)は、長尾為景の本拠地、春日山城から5キロほどしか離れていません。このとき為景はかなり劣勢であり、春日山城を攻略される直前だったことが分かります。 しかし、上条方の有力武将(かつては柿崎景家と言われていましたが、感状によると平子右馬允という武将だったようです)が為景方に寝返ったことで、為景は撃退に成功。上条定憲はまもなく死去したため、この戦いで重傷を負ったと見られます。このことから、為景の完全勝利とする説があります。 一方で、この戦いの後に為景が隠居したと記録されていることを理由に、長尾家の敗北だったとする見方も古くからあります。「晩年の為景が反乱に苦しみ、隠居に追い込まれた」という記述が多いのはそのためです。 上杉謙信が武田信繁など敵の有力武将を討ち取りつつも、戦力には致命的な被害を受けた「第四次川中島の戦い」のような痛み分けだった可能性もあります。ひょっとすると、長尾為景もこの戦いで重傷を負い、それが隠居の理由になったかもしれません。 いずれにせよ、これだけの大決戦であったにも関わらず、「三分一原の戦い」の詳細は謎に包まれています。敵の大軍を見事に撃退し、総大将を事実上討ち取ったのなら、「桶狭間の戦い」や「河越夜戦」のように華々しく宣伝してもよさそうなものですが。。。 当時の長尾家の人々にとって、何か記録したくない事情でもあったのでしょうか。

外交戦略の大転換

「三分一原の戦い」について、ひとつだけ明らかなことがあります。 この戦いを境に、長尾家の対外政策が一変し、宥和政策に転じていることです。 長尾家は、幽閉していた上杉定実を再び守護として盛りたて、以前のように(少なくとも形式上は)守護代として仕えることになりました。これにより、上条家など越後上杉家に忠実な家臣たちとの和解も進みます。 一方、上条定憲の死後、反為景勢力の主力となったのは、遠い親戚である「上田長尾家」の長尾房長(ながお ふさなが 1494年?~1552年)でした。これまで何度も、為景と結んだり戦ったりを繰り返してきた人物です。 この房長の嫡男、長尾政景(ながお まさかげ 1526年~1564年)の正室として為景の娘、仙桃院(綾?)が嫁ぐことが決まったようです(実際に結婚したのは1551年以降という説もあります)。 ちなみに、この夫婦から生まれたのが米沢藩の初代藩主、上杉景勝です。 さらに、こちらも時期は諸説ありますが、長尾為景の息子・虎千代(後の上杉謙信)が、「栖吉長尾家(古志長尾家)」の養子に入ることも決まりました。栖吉長尾家は、上田長尾家とは違ってもともと同盟関係にありましたが、それを更に強化したことになります。 こうした政策が功を奏し、戦乱は徐々に収束。2年後の1538年には、越後は再び平穏を取り戻しました。

戦乱を終わらせたのは長尾晴景だった?

これらの宥和政策を主導したのは、いったい誰だったのでしょうか? 守護・上杉定実や守護に忠実な武将たちから見れば、長尾為景はとうてい許せる相手ではありません。仮に為景がいい条件で和睦を求めてきたとしても、それまでの所業を考えれば、信用する気にはなれなかったでしょう。 やはり、戦乱の収束は長尾晴景が表に立って進めたと見るのが自然です。 長尾為景が引退した振りをして、晴景を操っていたということは考えられます。彼が本格的に隠居したのが1540年なら、そういうことになります。 しかし長尾家が取り組んだ守護の権威の復活は、一時しのぎのごまかしではなく、かなり本格的なものでした。それは、長尾為景が生涯をかけて取り組んできた「越後乗っ取り」とは逆の方向性を持っていたのです。それを考えれば、とても為景の意志だったとは思えません。 そもそも長尾為景は、朝廷工作(献金攻勢)を繰り返した結果、1535年に後奈良天皇から「御旗」を与えられていました。さらに1336年2月には「私敵治罰の綸旨」つまり長尾家の敵は朝敵と見なしてもいいというお墨付きも得ています。 大枚をはたいて「官軍」の座をゲットし、その直後の「三分一原の戦い」で敵の大軍を撃退したのなら、この流れに乗って反転攻勢をかけるのがセオリーです。 仮に決戦でダメージを受けていたとしても、1~2年もあれば復活できるはず。長尾為景のそれまでの戦歴には、そういうことが何度もありました。 やはり、長尾為景は1536年に本格的に隠居し、1537年に死去しているか、少なくとも実権は手放していると考えるのが自然ではないでしょうか。 朝廷の献金などについては、綸旨を得やすくするため長尾為景の名義にし、高野山も朝廷と近い関係にあるので、過去帳の記録もそれに合わせたという解釈も可能です。

伊達稙宗の侵略計画

長尾家と越後上杉家の和解は、「長尾家の戦国大名化」という観点から見れば大きな後退ではありましたが、「越後を外敵から守る」という観点から見ると大きな意味がありました。 この頃、東北地方の覇者・伊達稙宗が、越後にも触手を伸ばし始めていたからです。 伊達稙宗(だて たねむね 1488年~1565年)は、伊達政宗の曽祖父にあたります。このときの伊達家は「東北のハプスブルク家」とも言える状態。婚姻戦略と養子戦略を駆使し、南奥羽の大部分の大名を従属させていました。勢力範囲だけで見れば、独眼竜・伊達政宗の最盛期よりも、はるかに広い地域を支配下におさめていたのです。 その稙宗が次に狙いを定めたのが越後です。稙宗の母は越後上杉家の出身なので、大義名分もありました。息子の伊達実元を子どもがいない上杉定実の養子にし、事実上の乗っ取りを狙います。 上杉定実としては、家が断絶するよりは伊達家の傘下に入る方がましですから、稙宗の申し出に前向きに応じました。長尾晴景も、主家の断絶を避けるためにと、当初は賛成します。

「越後のソマリア」揚北衆の内紛

しかしこの問題をめぐり、「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれる豪族たちの間で対立が起きました。 揚北衆とは、越後北部を支配する国人たちのこと。阿賀野川(揚河)の北側、つまり「阿賀北」が勢力圏なので、「阿賀北衆」とも表記されます。新発田氏、本庄氏、中条氏、黒川氏、色部氏、加地氏が代表格です。 彼らは坂東八平氏の三浦党、宇多源氏の佐々木党などの名門の末裔で、鎌倉時代からこの場所を支配し続けているため、非常にプライドが高く、独立精神が旺盛な豪族たちでした。 上杉景勝の時代まで多くの反乱を起こしたことで知られますが、揚北衆同士の抗争も盛んでした。越後北部は、現代のソマリアやアフガニスタンのような地域だったのです。 伊達家との養子縁組を推進したのは、この揚北衆の一人、中条景資でした。中条景資の叔母は伊達稙宗の側室になっており、養子候補の伊達実元はその息子です。この縁組が実現すれば、中条景資は守護の従兄弟になるということになります。 一方、伊達稙宗の狙いは、中条景資を伊達家の傘下に取り込み、彼を通じて「阿賀北」を伊達家の領国にすることだったといいます。そうなれば、太平洋から日本海までまたがる大帝国ができあがり、伊達家は日本随一の大大名となります。

伊達帝国の侵略を防いだ長尾晴景

しかし、長尾家や越後上杉家にもたびたび反抗する他の揚北衆が、そうした伊達家の侵略に黙っているはずはありません。揚北衆の中で、中条景資の力だけが突出するのも問題視されました。 1539年(天文8年)、本庄房長が養子縁組の中止を求めて挙兵。これに対し、中条景資は伊達家に援軍を求めます。 伊達・中条連合軍は本庄城(新潟県村上市)を攻撃。本庄房長は耐えきれず、出羽の大宝寺晴時のもとに逃れる途中で死亡しました。本庄城を、寝返った実弟の小川長資に乗っ取られたことを聞いて憤死したと伝わります。 この結果、小泉荘(村上市周辺)の大部分が伊達家の勢力下に入りましたが、同じく揚北衆の黒川清実や色部勝長が抵抗を続けました。 越後の内紛に伊達家が軍事介入したことにより、長尾晴景は、伊達稙宗が勢力圏の拡大だけではなく、阿賀北の獲得も狙っていることを察しました。 そのため、それまでとは一転して養子縁組に反対するようになります。守護・上杉定実はそれでも養子入れを希望していましたが、晴景は(父・長尾為景の名前を使って)朝廷工作を行い、天皇の綸旨を求めるなど伊達稙宗との戦に向けた多数派工作を開始。 伊達稙宗は、まず長尾晴景に対処する必要が出てきたため、養子を送る計画は延期となりました。

帝国と王国の戦い「天文の乱」

一方、伊達家内部でも養子縁組計画への反対論が出てきます。稙宗は、長尾晴景を排除するためにも、養子入れに伴って多くの家臣を越後に送ろうとしていました。しかし、それでは伊達家の人材と戦力が減って弱体化してしまうと、息子の伊達晴宗を中心とした譜代家臣団が反対したのです。 それ以外にも、「帝国」の拡大を目指す稙宗と、「王国(家)」の強化を求める晴宗の間には多くの対立点がありました。 1542年、晴宗が稙宗の幽閉に失敗したことをきっかけに、父子の軍事衝突が発生します。大崎、葛西、畠山、相馬、蘆名、最上など「伊達帝国」を率いる伊達稙宗と、「伊達家」を率いる伊達晴宗の戦い「天文の乱」です。この戦乱には南東北全域と越後の武将たちが参加し、離合集散を繰り返しながら、6年間にわたって戦い続けました(越後では、阿賀北が主な戦場でした)。 1548年、稙宗方が劣勢な中で将軍・足利義輝の仲裁により和睦が成立します。伊達稙宗は隠居し、伊達晴宗が正式に家督を継承。これにより、越後上杉家に養子を入れる計画は完全に破綻しました。

外交を駆使して戦国大名となった長尾家

長尾晴景が伊達家との養子縁組に反対したことは、自らが権威を復活させた守護・上杉定実の意向に背く行為でした。「天文の乱」が発生する前に、定実は抗議の意味をこめて隠居の意志を表明。それに対し長尾晴景は、表向きは縁組に同意し、計画を前に進めます。 一方、長尾晴景は父と同じように朝廷への献金を行い、後奈良天皇から「敵を追討せよ」との綸旨を与えられていました。敵として想定されるのは伊達稙宗とその勢力です。それを知った稙宗が長尾晴景を強く警戒したことが、養子に多くの家臣を伴わせる計画となり、天文の乱につながっていきます。 つまり晴景は天皇からの綸旨を得ることによって、結果的に稙宗の野望を阻止することに成功したということになります。 一方、越後の独立を保った代償として、越後上杉家の後継者はいなくなり、断絶することになりました。それは「守護あってこその守護代」だった長尾家にとってダメージになるはずでした。主家を断絶に追い込んだ逆臣として、越後上杉家の旧臣たちが再び抵抗する恐れもありました。 しかし、晴景から家督を継いだ長尾景虎の幕府工作が成功し、将軍・足利義輝は特例として、長尾家を事実上の守護として認めます。その結果、越後上杉家の旧臣たちとの軍事衝突は最小限におさえ、長尾家は越後の国主となることができました。 父・長尾為景が武力で達成できなかった長尾家の戦国大名化を、晴景・景虎の兄弟は外交によって成し遂げたのです。

長尾晴景はクーデターで父・為景から家督を奪った?

長尾晴景を再評価する研究としては、前嶋敏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成-伊達時宗丸入嗣問題を通して-」という論文があります。 この論文では、長尾為景は1540年に隠居したという説を採用しています。 しかし平和的な家督譲渡ではなく、伊達家からの入嗣問題(養子縁組問題)をめぐって賛成派の長尾為景と反対派の長尾晴景が対立し、晴景が事実上のクーデターを起こして家督を奪った可能性を示唆しています。 上杉定実の書状に「(為景の留守中に)春日山城で何かが起きて、長尾為景が戻った」と書かれていること、その直後に、通常では必要でないはずの「家督譲渡状」がわざわざ作られている(つまり長尾晴景が父に無理矢理書かせたと思われる)ことを根拠にしています。 その場合、伊達晴宗が伊達稙宗を隠居に追い込んだのと同じような構図になります。 確かに、1540年に長尾家が入嗣賛成から反対に転じた背景に、こうした政変があった可能性は大いに考えられます。 しかし、長尾家の2つの方針転換を比べると、1540年の入嗣問題をめぐる転換よりも、1536年の守護との関係をめぐる転換の方がより劇的です。また、長尾為景が伊達稙宗の野望を知りながら、入嗣賛成に固執した理由も理解できません。彼の性格ならば、むしろ越後守護家の断絶を望んでいた可能性の方が高いでしょう。 また、この年に後奈良天皇から「敵追討」の綸旨を与えられていることから、長尾家ではしばらく前から朝廷工作(献金)を行っていたと考えられます。つまり、1539年に伊達稙宗が阿賀北に軍事介入をした時点で、晴景が稙宗との対決に向けた準備を始めたと考える方が自然です。守護が稙宗側につく場合、それを上回る権威を振りかざして味方を集める必要があるからです。 ただし、それらの朝廷工作は長尾為景の名前で行っていたようです。為景への綸旨は何度も前例があるため、長尾晴景の名前で工作するよりも獲得しやすかったのだろうと思われます。そのための偽装として、晴景の時代にも為景名目の文書が発給され、隠居・死去の時期があやふやになったとも考えられないでしょうか? ともあれ、この論文が非常に参考になるのは、上杉定実の書状と家督譲渡状を照らし合わせることで、長尾晴景が父に対してクーデターを起こした可能性を提起していることです。この時期から、武田家(1541年)や伊達家(1542年~1548年)、大友家(1550年)、斎藤家(1555年~1556年)、浅井家(1560年)など「息子が父を追放するクーデター」が多く見られるようになりますが、長尾家がそのさきがけだったことも考えられます。 クーデターが起きたのが1536年だったか1540年だったかはともかく、長尾晴景は越後を安定させるためには父をも追放する、積極果敢な将だったということになります。

晩年の長尾晴景

1544年(天文13年)、後奈良天皇から長尾晴景に対して「国中静謐の綸旨」と越後の繁栄を願う般若心経が贈られています。それまでに出した「私敵治罰の綸旨」とは違い、平和な内容の綸旨です。 東北では天文の乱の真最中でしたが、越後では天文の乱に連動していた阿賀北を除いて大きな戦闘は確認できません。その阿賀北でも、伊達稙宗と組んでいた中条景資の本拠、鳥坂城が落城するなど、長尾晴景の側が圧倒的に優勢でした。 長尾景虎の初陣「栃尾城の戦い」はこの年に起きていますが、軍記物に描かれているような大規模な戦闘ではなく、「窮鼠猫を噛む」といった感じの奇襲を撃退した、という程度だった可能性が高そうです。 「国中静謐の綸旨」からは、越後国内の反乱がほぼ鎮圧され、晴景が天皇の権威を使って、和平の機運を更に高めようとしていたことが伝わります。 しかしこの頃から、長尾晴景は病気がちになっていたようです。それは本人の書状からも、後に長尾景虎が書いた文章からも分かります。この話が発展して「長尾晴景は病弱・臆病で無能な当主だった」と描かれるようになったのかもしれません。 景虎に家督を継承する頃に何があったのかも、諸説があります。兄弟対立の末に隠居を迫られた可能性もありますし、病気のため隠居せざるを得ない状態だった可能性もあります。 優れた武将が晩年に(精神の?)病に冒され、当主としてふさわしくない状態に陥った例は、三好長慶、長曾我部元親などの例もあります。 いずれにしても、三好長慶が「織田信長の先駆者」として評価が高まっているように、長尾晴景も、病に冒された晩年を除き、巧みな外交によって越後の安定と独立を保った名君として評価してもよいのではないでしょうか。

まとめ

・長尾晴景の父・為景の晩年はあまりにも謎が多い ・1536年の「三分一原の戦い」の後、長尾家の方針は180度転換した ・長尾家が宥和政策に転じたことで、戦乱は収束 ・当主が長尾為景から晴景に交代したことで、越後に平和がもたらされた可能性が高い ・しかしその直後、伊達稙宗の侵略計画が発覚 ・晴景は朝廷の綸旨を得るなどして、伊達家の侵略に抵抗した ・「天文の乱」で長尾晴景に味方する伊達晴宗側が勝利し、越後の独立が守られた ・越後上杉家は断絶したが、長尾家が巧みな外交術によって越後の国主に ・上杉謙信が戦国大名として活躍できた背景には、兄・晴景の奮闘があった ・これらの政策は、長尾晴景が父を追放して強行したという説もある ・晩年は病に冒され、何らかの経過を経て弟・景虎に家督を譲った 次のページ栃尾城の戦い-上杉謙信の初陣は虚構だった?-