上杉謙信の幼少時代-虎千代は父・長尾為景に嫌われていた?-

自ら「毘沙門天の化身」と名乗り、仏教に深く帰依したことで知られる軍神・上杉謙信。仏教との関わりは、禅寺(春日山林泉寺)で過ごした少年時代の体験が原点になっているといわれます。 「虎千代」と呼ばれていた少年時代の上杉謙信が寺に預けられた理由は、「父・長尾為景に疎まれていたため」とも言われることも多いですが、実際にはどうだったのでしょうか?

上杉謙信の父、長尾為景とは?

長尾為景(ながお ためかげ 1486年~?年)は、家督を継いだばかりの1507年に主君である越後守護・上杉房能の居館を襲撃し、自刃に追い込むという、典型的な「下剋上」を行った武将です。 その後、上条家出身の上杉定実を傀儡として擁立。1510年には、「主殺し」に報復するために越後に出兵した関東管領・上杉顕定(上杉房能の実兄)をも撃退し、敗死させています。 さらに1513年には、傀儡として担いでいた上杉定実とも対立し、幽閉。守護の権力を完全に簒奪しました。 「幕府の秩序を復活させようとした」と言われる上杉謙信とは、対極的な人物にも見えますね。

上杉謙信が生まれた頃の越後情勢

上杉謙信は、1530年(享禄3年)に越後守護代・長尾為景の四男(または三男)として誕生。1530年の干支は「庚寅(かのえとら)」。寅年に生まれたことで、「虎千代」と名付けられました。 この1530年には「越後享禄・天文の乱」という大乱が発生しています。これは、越後の実効支配を強めようとする長尾為景と、それに抵抗するさまざまな勢力との間で、8年に渡って繰り広げられた戦乱です。 そのころ越後では、長尾為景の支配に対して、多くの武将が不満を募らせていました。下剋上をされた守護・越後上杉家に忠実な家臣や親族はもちろんですが、それとは別に、長尾家よりも家格が上だと自負している「揚北衆」と呼ばれる国人たち(越後北部、阿賀野川よりも北側を勢力圏にした豪族たち)は、もともと独立志向が強く、容易には従おうとしなかったのです。 1530年、上杉定実の家臣・大熊政秀の誘いに乗って、上杉定実の実家の一族である上条定憲が挙兵。続いて揚北衆も反・為景の兵を挙げます。 当初は将軍・足利義晴や管領・細川高国を後ろ盾にした長尾為景が優勢でしたが、1531年の「大物崩れ」で細川高国が敗死すると為景も勢いを失い、8年に渡る泥沼の戦乱に陥りました。 虎千代は、この戦乱の真っ只中で幼少期を過ごしたのです。

林泉寺と曹洞宗

林泉寺は、為景の父、長尾能景によって創建された曹洞宗の寺院です。曹洞宗は禅宗のひとつで、「何も考えず、ただ黙々と坐すれば仏としての心性が現れる」という「黙照禅」を特徴としています。同じ禅宗でも、師弟の禅問答を繰り返し、考え抜いた上での悟りを目指す「看話禅」の臨済宗とは対照的です。座禅を組む時にも、曹洞宗では壁に向かうのに対し、臨済宗では人と人が向かい合います。曹洞宗は内向的、臨済宗は社交的な性格があるとも言えるでしょう。 どちらも武士から強く信仰されましたが、どちらかというと、臨済宗は政治や文化を担う中央政権の武士たちに支持され、曹洞宗は地方の豪族や下級武士の間で広まりました。 難しい理屈をこねくり回すことなく、精神を落ち着かせることができる曹洞宗は、常に緊張を強いられていた地方の武士たちにとって最も役立つ教えだったのかも知れません。

林泉寺に預けられた理由は?

虎千代(後の上杉謙信)は1536年(天文5年)、7歳(数え年)で長尾家の菩提寺・林泉寺に預けられました。寺に預けられた理由としては、以下のような説が挙げられます。 ・ 虎千代は暴れん坊の悪ガキだったので、寺に入れてしつけようとした ・ 頭がいい少年だったので、学問を学ばせることにした ・ 母・虎御前(青岩院)が仏教に深く傾倒しており、虎千代も仏教に興味を示した ・ 長尾為景が44歳の時に生まれた息子なので、実子かどうかも疑われ、疎まれた ・ 正室の子ではないし、後継者争いを防ぐためにも出家させることにした このうち1つ目と4つ目の理由が組み合わされ、「為景が虎千代を嫌っていた」という話になることが多いです。小説などの題材としては最適ですね。

父が息子を嫌った例

しかし、いくら戦国武将とはいえ、父親が幼い息子を嫌うなどあり得るのでしょうか? 実は、そのような話が伝わっている戦国武将は他にもいます。 たとえば徳川家康も、次男の松平秀康(結城秀康)を嫌っていたという話が伝わっています。秀康が双子として生まれたからとか、ついつい女中に手をつけてしまって後悔していたとか、正室の意志が影響していたとか、理由は色々いわれます。 虎千代の母も側室でした。しかし、秀康の母のように女中ではなく、長尾一族の有力者の娘です。「腕白だったから嫌った」というのも、為景自身がかなり暴れん坊な武将でしたから、説得力に欠けますね。

禅寺は学校代わりだった?

「当時の禅寺は教育機関であり、武士の息子が寺で学問を学ぶのは当たり前だった」という話もよく聞かれます。 確かに当時の武家では、子弟のうち一人は寺に預けられるのが一般的でした。特に禅寺は、心身を鍛錬し、立派な武士として育て上げてくれる教育機関として人気でした。 嫡男が病死、または戦死した場合は、還俗させることも可能です。一方、嫡男が無事に跡を継いだ場合は、そのまま僧侶にすれば、参謀や外交官として活躍してくれるかもしれません。 全国にネットワークをはりめぐらせ、情報機関としても優れていた寺院との関係を深めるためにも、大きな効果が望めます。 とはいえ、武家の子弟がすべて、本格的に寺に入れられた訳ではありません。学問を学ぶだけなら、寺に通うとか、僧侶を家庭教師にする形も可能でした。息子たちの中でも、特に学問に向いていそうとか、武将に向いていなそうな子どもが、僧侶(参謀・外交官)候補として選ばれたようです。 後年の上杉謙信の言動から見ると、彼は幼い頃から内向的なところがあったのかもしれません。頭もいいことから、為景が将来の参謀候補として選んだ可能性もあります。

出家させようとしたのは父ではなく兄だった?

しかし、この時期の長尾家をとりまく状況を見ると、さらに別の可能性も見えてきます。 彼が寺に入れられた1536年は、「越後享禄・天文の乱」で最大規模の決戦「三分一原の戦い」が行われた年でした。 この戦いの後、長尾為景が何らかの理由で引退を余儀なくされ、長尾晴景が家督を継いだ(または長尾家の実権を握った)と見られています(異説もあります)。 「将来のライバル候補を出家させてしまいたい」という長尾晴景の意志により、虎千代が寺に入れられたという可能性も、完全に排除することはできないのです。 仮にそうだとしても、晴景は結局、元服して「長尾景虎」となった弟(を擁立する家臣たち)によって隠居させられてしまうのですが・・・

預けられたのは林泉寺ではなく栃尾の瑞麟寺だった?

長岡市栃尾では、栃尾城下の瑞麟寺で虎千代が幼少期を過ごしたという話が伝わっています。 栃尾城は、元服後の長尾景虎が派遣され、初陣を飾った場所として知られますが、実は元服前から栃尾にいたというのです。 その場合、「三分一原の戦い」の後に展開された府内長尾家の外交戦略の一環として、虎千代が早い段階で栖吉長尾家に養子入りしていたことになります。この瑞麟寺(またはその周辺)では、後に「栃尾城の戦い」として伝説化する景虎襲撃事件も発生したことが分かっています。 長尾景虎自身が、「幼稚の時分に父を失い、古志郡(栃尾周辺)に下向した」と書き残していることから、長尾為景の死が1937年だとすると、この説がかなり有力になってきます。

まとめ

・ 上杉謙信の父、長尾為景は、伝説上の謙信とは対照的な「不義の将」だった ・ 上杉謙信は、長尾家が危機的な状況の中で生まれ育ち、寺に入れられた ・ 戦国武将が息子を嫌う例は他にもあり、完全には否定できない ・ 武家の子弟が寺に入って学問を学ぶのは、当時は一般的なことだった ・ 上杉謙信は内向的な少年だったため、参謀候補として選ばれた? ・ 同じ年に起きた出来事から推定すれば、兄・晴景が弟を出家させようとした可能性もある ・ 幼少時に栖吉長尾家に養子入りし、栃尾の瑞麟寺で修行したという説も有力 次のページ長尾晴景の知られざる奮闘-上杉謙信の兄は名君だった?-