長尾景虎(上杉謙信)の越後統一-書状が伝える苦闘の軌跡-

兄・長尾晴景を隠居させ、守護代・長尾家の家督を継いだ長尾景虎(後の上杉謙信)。 しかし、プライドの高い越後の武将たちから国主と認められるまでには、さらに多くの試練を乗り越える必要がありました。 父・長尾為景が実現できなかった越後統一を、景虎はいかにして、たった4年間で成し遂げたのでしょうか? 当事者たちの書状を中心に、軍記物では描かれなかった「地味な越後統一」のプロセスをたどります。

書状の年次比定について

長尾景虎が家督を継承した直後の天文18年(1549年)から、越後のほぼすべての勢力を従属させた天文21年(1552年)までの当事者たちの書状のやりとりを軸に時系列を整理しています。 ただし、書状の年次比定は研究者によって異なります。特に意見が分かれている点や、従来の定説と異なる点については、それぞれ以下の判断で比定をしています。 1)上杉憲政が初めて越後に逃れた年 上杉憲政(成悦)が長尾政景に送った5月24日の書状で、憲政は景虎を「同名平三」と呼んでいます。しかし7月3日の平子孫太郎宛の書状では、「長尾弾正少弼」に変わっています。景虎が弾正少弼の官途名を名乗り始めるのは天文21年6月28日であり、7月3日の書状からは亡命から日が経っていないことが推察できるので、この出来事は天文21年に比定しています。 2)長尾景虎の初めての関東遠征が行われた年 上杉憲政の書状などから、亡命と同じ年に、かなり具体的に計画されていたことが分かります。そのためこの遠征計画も天文21年に比定しています。景虎自身が出陣したかどうかは不明ですが、少なくとも庄田定賢の関東への出陣を労う書状は確認できます。 3)宇佐美定満の居城「宇駿要害」が放火された年 本庄実乃などの書状に書かれている「御屋形様」の関東への出陣は、高齢で関東に行く理由もない越後守護・上杉定実ではなく、「関東の御屋形様」つまり上杉憲政についての話だと解釈するのが自然です。この話は「宇駿要害」の放火と同時に語られているので、1)が天文21年であれば、宇駿要害放火事件も天文21年に比定しています。このことは、長尾政景がいわゆる「坂戸城の戦い」で降伏した後も独立性を保ち、水面下で抵抗を続けていたことを示唆しています。 4)宇賀地で合戦が起きた年 宇佐美定満と多功小三郎が離反し、発智長芳の居城が攻められ、多功小三郎が戦死するなど、特に激しい戦闘が繰り広げられた「宇賀地の戦い」は、天文18年に比定する説もあります。しかしその場合、4月19日に景虎が平子孫太郎宛に送った安堵状の、それまで宇賀地で何事も起きていないような表現に違和感が生じます。また、もし天文20年だと、5)の総攻撃令に書かれた文章の「去春以来」という表現と矛盾します。一方、天文19年の春には、将軍からの上使派遣が少し遅れる理由として、越後の情勢が落ち着いていないことが挙げられています。そのため、この戦いは天文19年に比定しています。 5)長尾景虎が上田荘(長尾政景の所領)への総攻撃を命じた年 平子孫太郎宛の命令は7月23日の日付で、名乗りが「長尾平三景虎」であることから、これは天文20年より以前ということになります。また、この命令書には政景が「去春以来」無為を望み続けてきたと書かれているため、1~3月に戦闘があった年の翌年ということになります。4)が天文19年だとすると、こちらは天文20年に比定できます。 6) 波多岐で合戦が起きた年 こちらも、4)や5)との兼ね合いで天文18年か天文19年のどちらかに限定されます。天文18年の可能性も否定はできませんが、4)に合わせて天文19年と考える方が自然です。 7) 村松城が攻略された年 9月23日の福王寺たちへの書状、12月28日の蘆名家家臣への書状などから、景虎が天文19年から20年にかけて古志郡に駐留し、会津との境に近い地域の問題を片付けていたことが分かります。村松城攻略はその締めくくりとして、天文20年1月に比定しています。 8) 金子尚綱が宇賀地の領地引き渡しを拒否した年 11月14日の金子尚綱から平子孫太郎宛の書状には、その前年の春に勢力圏の境界を確定させる協定が成立していたことが書かれています。それからこの書状が書かれるまで、府内と上田の間で軍事衝突は起きていないということになります。この協定が天文19年の戦闘後の和睦だとすると、天文20年の夏に景虎が上田(長尾政景)への総攻撃を命じたという年次比定と矛盾が生じます。一方、金子の書状に書かれている協定が、天文17年の長尾晴景政権下だと考えると辻褄が合います。そうすると、晴景から下平吉長に対して出した証書の背景も納得できます。そのためこの書状は天文18年11月に比定しています。 もちろん、これらの年次比定がすべて正しいとは限りません。年次だけでなく、書状の表現の解釈もさまざまです。新しい史料の発見・分析が進めば、修正する必要が出てくる可能性もあります。 次のページ長尾景虎の越後統一(1)-上田長尾家と栖吉長尾家-