栃尾城の戦い-上杉謙信の初陣は虚構だった?-
上杉謙信(1530年~1578年)の初陣として名高い「栃尾城の戦い」。 栃尾城に攻め寄せた豪族たちの大軍を、まだ少年だった謙信が見事な戦術を駆使して撃退した戦いとして語り継がれています。 しかし、それらの物語で登場する敵将たちは、このとき存命ではない武将だったり、もっと後になってから謀反を起こす人物だったりします。 この時期に中越地方で大きな戦乱が起きていたという信頼できる証拠もないことから、近年は「そんな攻城戦はなかったのではないか?」という見方も増えています。 それでは、少年時代の上杉謙信は、何のために栃尾城に派遣され、そこで何をしていたのでしょうか?
「栃尾城の戦い」とは?
「栃尾城の戦い(とじおじょうのたたかい)」は、1544年(天文13年)に中越地方の栃尾城(新潟県長岡市栃尾地域)で起きたと伝わる攻城戦です。 上杉謙信を藩祖と仰ぐ米沢藩が編纂した「上杉家文書」などの記述をもとにした、以下のような物語が知られています。 当時の長尾家の当主、長尾晴景は、軟弱な性格だったため豪族たちから侮られ、越後は深刻な内乱状態に陥っていました。 自ら出陣したくない晴景は、林泉寺で修行していた弟の虎千代に、内乱の鎮圧にあたらせることにします。 1543年(天文12年)に元服した虎千代は「長尾平三景虎」と名乗り、敵が群がる前線の三条城へ出陣。その後栃尾城に移り、ここを拠点に内乱を鎮圧することになりました。 しかし、この時の長尾景虎はまだ満13歳。「ガキが大将として守る城など、ひとひねりだ」と侮った豪族たちは、翌年の1544年に一斉に栃尾城に攻め寄せます。 反乱軍を率いるのは、三条長尾家の長尾俊景、黒滝城主の黒田秀忠など。兵力は1万以上にのぼりました。 これに対し、長尾景虎は劣勢でありながら籠城せず、出撃して野戦を挑むことを決めます。少ない兵力を2つに分け、別働隊が敵の本陣を奇襲。敵が混乱したところに景虎率いる本隊が突撃したところ、反乱軍は総崩れとなりました。 栃尾城の麓を流れる刈谷田川の近くで行われたことから、「刈谷田川合戦」とも呼ばれます。
敵将の名が不明な戦い
以上が軍記物や歴史小説で伝えられる「謙信公旗揚げ伝説」ですが、これには多くの疑問点があります。 まず、反乱軍の首魁とされる一人、長尾俊景(長尾平六)は、この戦いの32年前の1512年(永正9年)に長尾房長に討ち取られた武将です。その子孫が見附市(栃尾と三条の間)の一部を支配していたようなので、混同されている可能性はありますが、当主の名前も知られていないため、小さな勢力だったと思われます。 副将格?の黒田秀忠は、一般的には1545年(天文14年)と1546年(天文15年)に謀反を起こしたとされている武将です。 近年の研究では、黒田秀忠の反乱は1548年(天文17年)と1549年(天文18年)だったと見られています。謀反の舞台も春日山城の辺りであり、1544年に栃尾城に攻め寄せているとは思えません。 越後国内で反・長尾晴景勢力の中心だった揚北衆の中条景資は、それ以前に本拠地を落とされて降伏しています。 それでは、いったい誰が1万もの兵を率いて栃尾城に攻め寄せたのでしょうか?
長尾景虎自身の説明
実は長尾景虎自身が、この戦いについて書いた文章が残っています。1556年に出奔騒ぎを起こした際、「これだけ活躍したんだからそろそろ引退してもいいだろ」と、自分のそれまでの功績を書き連ねたものです。 栃尾城での出来事については、以下のように書いています。
幼稚の時分、父を失った後に古志郡に下向した自分を若年と見くびり、近所の武将たちが栃尾城の近くに砦を築いたり、奇襲を仕掛けたりしてきたので、必死で防戦した。 「上越市史 上杉氏文書集 長尾宗心書状」より意訳
1551年(天文20年)に栃尾城下の常安寺に出した安堵状でも、以下のように記しています。
先年に思いがけない戦いがあった際の働きは比類がないものだった。常安寺の開基のために、般若院の財産と法用寺の寺領を寄進する。 「長尾景虎安堵状」より意訳
景虎本人がこう書いていることから、栃尾城の近くで奇襲攻撃があったことは確かです。その際、瑞麟寺の住職だった門察に助けられたようです。 景虎はその恩に報いて、瑞麟寺が焼失した後、門察が新たに常安寺を開基するための資産を与えたのです。 しかしそれは、栃尾城が包囲されるような攻城戦ではなかったことは明らかです。 瑞麟寺は、栃尾城の少し南側、刈谷田川の近くにあったことが分かっています(長岡市栃尾宮沢)。林泉寺と同じ曹洞宗で、景虎が門察から学問を学んでいたという伝承もあります。 景虎の言葉から読み解く限り、一番ありえそうなのは、敵の御曹司が寺に通っていることを知った反乱軍が数百人で瑞麟寺を襲撃したものの、景虎の護衛と門察が率いる僧兵たちが必死で防戦し、守りきったというパターンです。 この「瑞麟寺の襲撃」に尾ひれがついて伝説化し、壮大な規模の「栃尾城の戦い」または「刈谷田川合戦」として語り継がれてきたのではないでしょうか?
長尾景虎が栃尾城に派遣された理由とは?
そもそも長尾晴景は、何のために幼い弟を栃尾城に派遣したのでしょうか? 戦闘経験のない少年が武将として役立つと考えるはずはありません。劣勢な状況で戦場に送って、人質にでも取られたら面倒なだけです。 実は長尾景虎が栃尾城に行った理由は、極めて普通の事情によるものでした。彼は、「栖吉長尾家」という親戚の養子になるために送られたのです。 栖吉長尾家(古志長尾家)は、長尾為景の府内長尾家(三条長尾家)、上田長尾家と並ぶ越後長尾家の代表格です。もともとは守護代の職も、この3家が交代して担当していました。 栖吉長尾家は栖吉城(長岡市)を拠点に中越地方で大きな勢力を持っていました。長尾為景とは対立したことはあったものの、和解後は同盟関係を維持してきました。 栖吉長尾家では、養子に入った景虎の傅役として、家中随一の武将、本庄実乃(ほんじょう さねより)を任命します。この本庄実乃が拠点にしていたのが栃尾城です。 景虎は、本庄実乃から軍略を学んで、栖吉長尾家の当主候補として育てられることになったのです。
長尾晴景から本庄実乃への書状
当時の栃尾城周辺の情勢を伝える史料があります。 1543年(天文12年)、長尾晴景が栃尾城主の本庄実乃に宛てて出した書状で、以下のような内容です。
細かく報告してくれてありがとう。自分の病気についてはしっかり治療し、快復したので安心してほしい。栃尾周辺にある(敵の)拠点については、皆で相談してしっかり対処するように。何か特別なことが起きたら教えてくれ。景虎も近日中に出陣するとのこと。勝利は目前だな。以上。 「越佐史料」より意訳
この書状が書かれた時点で、景虎がどこにいたのかははっきりしませんが。すでに栃尾城におり、近いうちに初陣を飾ることが予定されていたとも読み取れます。 本庄実乃は長尾晴景に対し、栃尾城の周辺で敵がどんな動きをしているか、細かく報告したのだと思われます。 しかし長尾晴景はそれについては、あまり心配していないようです。敵は簡単に鎮圧できそうな小勢だったことが読み取れ、後見人となる本庄実乃に対する絶大な信頼感も伝わってきます。 晴景としては、弟をそういったお手頃な戦いで初陣を飾らせ、栖吉長尾家の後継者としてふさわしい若武者だとアピールしたかったに違いあり この初陣と「瑞麟寺の襲撃」は、おそらくまったく別の出来事だったと思われます。後者は、景虎にとって思いがけない奇襲だったためです。 景虎は元服前から栃尾に送られ、栃尾の禅寺・瑞麟寺で学問を学んだという伝承もあります。その場合、「瑞麟寺の襲撃」は元服前の出来事だった可能性もあり、そう考えれば景虎が「幼稚の時分」と表現していることも納得できます。
軍神・上杉謙信を育てたのは本庄実乃だった?
長尾景虎は、この1543年から家督を継ぐ1548年まで栃尾城で過ごします。この5年間でどんな出来事があったのか、信頼できる史料はほとんど残っていません(黒田秀忠の乱を1548年と仮定した場合)。 はっきりしているのは、守門神社という神社に寄進をしていることぐらいです。 しかし、あとは小競り合いや残敵掃討の繰り返しであったとしても、本庄実乃による実戦の指揮を間近に見られたことは、後の上杉謙信にとってきわめて大きな意味があったはずです。 禅寺の小僧は、本庄実乃という師を得て、栃尾兵学校で5年間みっちり学んだことで、毘沙門天の化身として生まれ変わったのです。
米沢藩によって存在を消された栖吉長尾家
しかし、上杉謙信と栖吉長尾家との深い関係や、本庄実乃の功績は、米沢藩などがまとめた後世の記録ではほとんど語られることはありません。 上杉謙信は、元服直後の14歳の段階で、すでに軍神として指揮を執っていたことになっています。その背景には、藩祖を神格化したいという意図とは別の事情もあったようです。 米沢藩主は、栖吉長尾家とライバル関係にあった「上田長尾家」の血筋を継いでいるのです。 1578年(天正6年)に上杉謙信が急死すると、上田長尾家出身の上杉景勝と、北条家出身の上杉景虎との後継者争い「御館の乱」が勃発します。 栖吉長尾家出身の上杉信虎や、本庄実乃の息子、本庄秀綱は上杉景虎を支持しましたが、敗北。 これにより、謙信時代には一門筆頭とされてきた栖吉長尾家は滅亡しました。 その後、米沢藩では上杉謙信と栖吉長尾家との関係をできるだけ薄めようという、記録の修正が行われたといいます。 例えば、謙信の母は栖吉長尾家の出身だった可能性が高いですが、上田長尾家の出身とされました(さらには、長尾為景の側室ではなく正室とされました)。 長尾景虎の栃尾城時代の記録がほとんど残っていないのも、本庄実乃の活躍を消すためだったかもしれません。 その代わりに、「栃尾城の戦い」という軍神伝説だけが伝えられることになったのです。
まとめ
- 「栃尾城の戦い」はあくまで軍記物の伝説
- 敵将の名前すらはっきりしていない
- 景虎自身はゲリラ攻撃を受けた体験を書き残している
- そもそも栃尾城に派遣されたのは養子に入るため
- 優勢な戦況下で、後見人のもとで初陣を飾った
- その後見人、本庄実乃が謙信を名将として育てた
- しかし大人の事情により、本庄実乃の功績の多くは歴史から消されてしまった