- 戦国時代のQ&A -

上杉謙信(長尾景虎)の家督相続時、どんな兄弟対決があったのか

上杉謙信(長尾景虎)が兄・長尾晴景から家督を継承した際、何らかの兄弟対決があったのは明らかです。 それがどんな闘いだったのかは諸説ありますが、近年分析された史料により、これまでの定説は覆りつつあります。家督継承の直後に長尾景虎が書いた書状から、残酷な粛清劇があったことも分かってきました。 異例な手段で戦国大名になったからこそ、上杉謙信は「義」と「仏法」を求め続けざるを得なかったという見方もできます。 当事者たちが書いた書状などから、謎めいた家督相続劇の背景を探ってみましょう。


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家督継承のナゾ

上杉謙信(1530年~1578年)は、1548年(天文17年)に腹違いの兄・長尾晴景の養子となり、そのまま越後守護代・府内長尾家の家督を継ぎました。当時の名前は長尾景虎です。 形式上の主君である守護・上杉定実が仲介した正式な家督継承であり、晴景が病身で頼りなかったことから、多くの家臣が「武闘派」の景虎を支持したといいます。 しかしこの時期には、そこまでスムーズな家督継承ではなかったのではないかと思わせる、謎めいた出来事がたくさん起きています。 晴景の弟で、景虎の兄である長尾景康の殺害。 長尾家に対して恩義があるはずの家臣、黒田秀忠による、2度にわたる動機不明の反乱。 晴景と血筋が近い上田長尾家に属する武将たちと、景虎に属する武将たちの抗争。 1548年、越後では何が起きていたのでしょうか?


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軍記物が伝えた「兄弟対決」

江戸時代前期に書かれた軍学書「北越軍談」によると、長尾晴景の時代は父・長尾為景の寵臣だった黒田秀忠と、その弟の「金津伊豆」が政治を牛耳り、越後は内乱状態に陥っていました。 そこで長尾景虎は、軍師・宇佐美定行の説得に応じて挙兵。「米山合戦」で長尾晴景を敗死させ、長尾家当主の座を勝ち取ったといいます。 「北越軍談(北越軍記)」は宇佐美定行のひ孫だと名乗る軍学者、宇佐美定祐が作者とされ、「甲陽軍鑑」の上杉家版とも言われます。宇佐美定行(宇佐美定満)の根拠不明の活躍が多く描かれるなど、信頼できない記述が多いとされています。 長尾晴景が戦死したという話も、他の史料と照らし合わせるとまずあり得ないですが、江戸時代初期にそういう話が伝わっていた、という意味では参考になります。この話のモデルとなった、何らかの軍事衝突があったのかもしれません。


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長尾景虎による説明

それでは、より信頼できる史料を見てみましょう。 まずは、長尾景虎本人の言葉です。

兄・晴景は病弱だったので、奥郡の武将たち(越後北部の揚北衆など)から侮られていた。彼らは何やら遺恨があると言って出仕もせず、好き勝手な行動をしていた。

自分は若輩者だったが、一家の名誉を守るために春日山城に赴いた。すると意外にも、問題は簡単に解決され、越後は平穏になった。

上越市史 上杉氏文書集「長尾宗心書状」より意訳

これは、景虎が家督相続から8年後の1556年、出奔騒動を起こした際に出した書状で、若い頃の景虎の経歴を伝える一級史料とされているものです。 書状を受け取る側(林泉寺の元住職)も事情通なので、でっち上げを書くとも思えません。 つまり、長尾晴景が病弱だったこと、揚北衆の独立精神が旺盛だったこと(これは謙信や景勝の時代までそうでしたが)、長尾家の名誉を傷つける事件が起きたこと、その後景虎が春日山城に行き、何らかの方法で事件の解決に取り組んだことは、事実と考えて良さそうです。 しかし、当事者の言葉なので、都合の悪い事実にはあえて触れていない可能性はあります。つまり、兄弟の間に何らかの対立があったかどうか、それに伴う軍事衝突があったかどうかは、この史料からは判断できないのです。


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「長尾家の名誉」を危機に陥れた「黒田秀忠の乱」

景虎が解決に取り組んだ、長尾家の名誉の危機とは何だったのでしょうか? 実は、その事件の最中に景虎が書いたと思われる書状が残っています。

わたしの兄、晴景の兄弟に対して黒田秀忠が思いも寄らない暴挙に及んだので、上郡(上越地方)に来た。

厳しく処断すべきだと思い、桃井を通して(守護・上杉定実に)ご相談した。その結果、黒田を成敗することになり、景虎も同意した。

(守護は)こうなっては是非もない次第、いかようにもせよと仰せだ。晴景の代わりにこのことを伝えておく。

十月十二日 平三景虎

村山与七郎殿

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

この書状の宛先になっている「村山与七郎」とは、徳合城の村山義信だと考えられます。 徳合城(新潟県糸魚川市徳合)は、春日山城から西に6キロほどの場所にある城で、上越と越中方面を結ぶ要衝です。 黒田秀忠が上越地方で「晴景の兄弟」に対して何らかの事件を起こし、それを解決するために栃尾にいた景虎がかけつけ、守護の同意もとりつけた上で、なぜか直接命令を下せない晴景の代理として討伐を命じたことがわかります。


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「黒田秀忠の乱」が起きたのは定説の3年後だった?

ところでこの「黒田秀忠の乱」は、定説では1545年(天文14年)に始まったとされています。黒田秀忠が晴景の弟である長尾景康と長尾景房を殺害し、その後中越地方の居城、黒滝城に立てこもったという説です。 この村山与七郎宛の書状も、その時に黒滝城の攻略を命じたものだとされてきました。 この説から派生した伝承として、黒田秀忠が大軍を率いて栃尾城の景虎を攻めたという物語(栃尾城の戦い)や、景虎の幼少期に黒田秀忠が春日山城を襲い、虎千代(景虎)は軒下に逃げ込んで難を逃れたという物語があります。 当時の史料の多くがそうですが、村山与七郎宛の書状も、日付は書かれていても年号が書かれていないので、「黒田秀忠の乱」が起きた年は明らかではありません。 しかし近年は、高野山の清浄心院の過去帳(越後過去名簿)に記録された生前供養の記録で、黒田秀忠が1547年夏の段階で健在だったことが確認できることから、謀反を起こしたのはそれ以降だという説が有力になっています。 中越にいた景虎がわざわざ上越に行って問題の対処にあたっていること、黒田秀忠の乱と景虎の家督継承の関連性が非常に高いこと、中越にある黒滝城の攻略を上越西部の城主に命じるのはおかしいことを考えれば、1548年に上越で起きた可能性が高そうです。 後年の景虎が書いた「一家の名誉を守るために春日山城に赴いた」という言葉も、次兄の長尾景康を殺害した黒田秀忠の討伐だと解釈できます(もうひとりの兄、長尾景房は実在が疑問視されています)。


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「叛臣」黒田秀忠とは?

黒田秀忠は、「越後過去名簿」に一族の供養記録が多く記されていることから長尾晴景政権の有力者だったとは見られますが、それ以上のことはよく分かっていません。 黒滝城主だったという話も不確かで、越後過去名簿では府内の人ということになっています。所領は中越にあった可能性もありますが、魚沼地方(妻有荘)という説もあります。 もともとは胎田常陸介という武将の息子で、長尾為景の斡旋により、長尾家の重臣、黒田良忠の養子に入ったという説もあります。いずれにせよ、長尾為景や長尾晴景に引き立てられたと見られ、長尾家に対しては恩義はあっても恨みはないはずです。 それでは、黒田秀忠はなぜ、当主の弟、長尾景康を殺害して謀反を起こしたのでしょうか?そもそも、それは「謀反」だったのでしょうか?


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晴景が討伐を命じなかった理由は?

景虎による討伐令(忠義を尽くせば本領安堵されるという約束)は、村山与七郎だけでなく、村田次郎右衛門尉という武将に宛てたものも残っています。 どちらの書状でも、景虎は晴景の奏者(取り次ぎ)という形をとってはいます。しかしそういった書状を出す(文面を祐筆に書かせて花押を書く)だけなら病身の晴景でも可能でしょう。 いったいなぜ、当主の長尾晴景ではなく、形式上は他家の養子にすぎない景虎が主体となって討伐の段取りを決めているのでしょうか? そしてなぜ、景虎は守護・上杉定実から討伐の同意を得ていることを、しつこいほどアピールしているのでしょうか? これらの理由として、考えられる可能性が3つあります。 1つ目は、晴景の病状が花押を書けないほど進行していたということ。 2つ目は、黒田秀忠が晴景の身柄を確保していたこと(幽閉など)。 3つ目は、景虎が守護・上杉定実と談合し、晴景の反対を押し切って討伐を決めたこと。 晴景がこの後も4年間生存することを考えると、1つ目の可能性は高くはなさそうです。しかも晴景は、この乱の数ヶ月前に別件で自分名義の通達を出しています。 2つ目については、黒田秀忠が晴景を人質に取っていた場合は、そう簡単には討伐を決められなかったことでしょう。 残るのは3つ目ですが、晴景が討伐に反対する理由とは何でしょうか? ただ黒田秀忠を寵愛していたからに過ぎなかったのでしょうか、それとも、実は弟・景康の殺害を命じたのが晴景だったからでしょうか?


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黒田秀忠は主君に代わって罪を被った忠臣だった?

長尾景康が出家もせず、他家への養子にも出ていなかったのであれば、病身の晴景に代わって当主になろうとしてもおかしくはありません。 また、守護の上杉定実は、伊達家との養子縁組を潰すことで上杉家断絶の可能性を高めた晴景を恨んでいた可能性があります。 または、そうした景康擁立の動きが実際にはなかったとしても、病に苛まれていた晴景が疑心暗鬼に陥り、晩年の三好長慶のような行動に出たことも考えられます(三好長慶は弟の安宅冬康を居城に呼び出して誅殺しました)。 黒田秀忠は、長尾為景・晴景の父子に対して恩義がある武将です。彼が長尾景康を殺す動機があるとしたら、晴景の命令を受けていたか、または晴景の安全を守るために先手を打った、ということ以外には、なかなか想像ができません。 高野山に残された「乱の直前に黒田一族が一斉に生前供養をした」という記録も、黒田秀忠が主君のために、一族もろとも滅びる覚悟を決めたことの現れだったのかもしれません。 その場合、悪役として歴史に名を刻まれた黒田秀忠は、実は長尾晴景の代わりに罪を被り、死んでいった忠臣だったということになります。 晴景は、その秀忠の思いを知っていたからこそ、守護や景虎にどんなに迫られても、討伐令に自分の花押を書く気にはなれなかったのではないでしょうか? 史料の裏付けはないものの、「黒田秀忠が独立を画策して挙兵した」という従来の説よりは説得力があるはずです。 この当時の越後情勢を見る限り、長尾晴景と正面から戦えるだけの勢力を持っていたのは、長尾景虎と長尾政景の2人以外にはいなかったからです。


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「2度目の謀反」は幻だった?

「黒田秀忠の乱」について、定説では理解し難いことが他にもあります。 従来、黒田秀忠は1度目の謀反では許され、それから間もなくして2度目の謀反を起こしたと伝えられてきました。 「主君の弟を殺した大罪人」にも関わらず、なぜ最初は許されたのでしょうか? そして、せっかく許されたのに、なぜ大した準備期間も経ずに、2度目の謀反を起こしたのでしょうか? これらの疑問を解く鍵も、長尾景虎がその直後に書いた書状から見つかりました。 書状の宛先は、景虎の家督継承を支えた立役者の一人、小川長資です。

黒田和泉守が晴景に対して思いも寄らないことをするので、わたしが去年の秋に上越に移り、成敗することになった。すると黒田が出家して他国に立ち去ると言うので、了承して当地(春日山城)に身柄を移した。

しかし、それから間もなくして再び逆心を持ち何やら企んでいることが分かったので、御屋形様(守護・上杉定実)の了承を得て黒田一族をことごとく殺害した。御屋形様は、そのことを本庄家にも自ら手紙を書いて伝えるとのこと。さぞかし満足されていることだろう。

二月二十八日 長尾平三景虎

小河右衛門佐殿

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

この書状は、「黒田秀忠の乱」の真相をかなり明らかにしています。 黒田秀忠は、何か深刻な事件(おそらく長尾景康の殺害)を起こした後、追手を差し向けてきた景虎に対してすぐに降伏しました。 そして、「出家して国外に退去する」という比較的緩い条件で許されることになったものの、なぜか春日山城に連行され、幽閉されます。 そして2ヶ月後、「何やら企んだ」という疑惑を被せられ、一族もろとも殺害されたのです。 長尾景虎は、黒田秀忠との戦いによって武名を上げ、家臣団に慕われて当主になったと伝わっていますが、他ならぬ景虎自身の書状が、それを否定する証拠になってしまっています。 景虎は後の「出奔書状」でも「意外と簡単に片付いた」と書いていますが、この「乱」では戦闘らしい戦闘は起きておらず、「2度目の謀反」に至っては、実行にさえ至っていないのです。 黒田秀忠が2度目の謀反を企んだ容疑についても、事実とは思えません。春日山城での幽閉中に、そんなことを企むはずはないからです。 本気で謀反を起こすつもりなら、約束通りに出家し、国外退去するふりをして、同じ時期に景虎と対立していた長尾政景を頼るという方法が最も合理的です。 つまり、この事件で長尾景虎が行ったことは、殺人事件の犯人を逮捕し、なぜかいったん許す約束をしながらも、2ヶ月後に新たな容疑で立件し、守護の裁定を経て、一族もろとも殺害したことだけだったのです。


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謀反人は黒田秀忠ではなく長尾景虎だった?

「黒田秀忠の乱」が始まったのは、高野山の「越後過去名簿」により1547年秋か1548年秋のどちらかだということが明確になっていますが、長尾景虎やその他の武将の動向から、1548年(天文17年)の可能性が高いと言われます。 景虎が黒田秀忠討伐のためとして上越に出征し、兵を集め始めたのは10月。総攻撃の準備を整えたのは12月13日。その直後、黒田秀忠はおそらく戦わずして降伏しています。 そして、景虎が長尾家の家督を継いだのは天文17年の大晦日です(日付はすべて旧暦)。 翌年の正月4日、長尾景虎の後見人で軍略の師匠でもあった栃尾城主・本庄実乃が、同じく景虎与党の武将・上野家成に次のような書状を出しています。

お祝いの飛脚をどうも。(景虎は)君からのメッセージを読んで、とても喜んでいたよ。

今回は、御屋形様(上杉定実)のご命令で「御無事」が整って、春日山城に移ることができたんだ。実にめでたいよな。

今回の騒動の事情については、以前から説明をしている通りだ。とにかく、そっちはそっちで健闘してくれ。

君の働きについてはちゃんと(景虎に)伝えるから、安心してほしい。こっちの慶事が一段落したら、また連絡するよ。

上越市史 上杉氏文書集「本庄実乃書状」より意訳

当時の書状で書かれる「御無事」とは、対立していた勢力が和解をする際に使われる言葉です。 この本庄実乃の書状により、この直前に長尾晴景と長尾景虎の間で何らかの対立があり、守護・上杉定実の仲介により和解が成立したことが分かります。 晴景と景虎との対立とは、家督の相続をめぐるものだったのでしょうか? もしそうだとすると、長尾景虎は「君側の奸」黒田秀忠の討伐を名目に挙兵し、春日山城を2ヶ月ほど包囲した上で、上杉定実に仲介を依頼して晴景に隠居を迫った可能性が高くなります。 事実上、長尾景虎によるクーデターです。本庄実乃の書状の喜びようからも、武将たちがそれを願って景虎についてきたのだろうと推測できます。「米山合戦」はなかったとしても、「北越軍談」の記述は必ずしも荒唐無稽なでっち上げではなかったのです。


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長尾晴景は、黒田秀忠の助命を条件に隠居した?

しかし、部下の武将たちの思惑はともかく、景虎自身は、必ずしも家督を奪うつもりはなかったとも思われます。 黒田秀忠の討伐を呼びかける書状では、形式上とはいえ晴景と景虎が同じ勢力であることが強調されているためです。彼は、二・二六事件の青年将校のような気持ちで兵を挙げたのかもしれません。 そうなると、晴景と景虎の兄弟自身の対立は、黒田秀忠の処遇が争点だったのではないか、という可能性が浮かび上がってきます。 長尾景虎が殺された次兄・景康をどこまで慕っていたかは分かりませんが、彼の文章を読む限りは、長尾家の名誉を守るためにも、黒田秀忠を決して許すことはできなかったでしょう。 一方、もし黒田秀忠による長尾景康の殺害が、晴景のための行為だった場合、晴景は自分を守った忠臣を処断する決断ができなかったに違いありません。 その決断から逃れるためにも、晴景は病気を理由とした家督交代を自ら切り出し、その条件として黒田秀忠の助命を求めたのではないでしょうか? そう考えれば、「景康を殺した黒田秀忠が、なぜいったん助命されたのか」という疑問も解決します。 結果的には、その約束は一時的にしか守られなかったことにはなりますが・・・


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長尾景虎の挙兵と、「天文の乱」終結の不思議な一致

長尾家の家督相続劇には、「黒田秀忠の乱」以外にも、深く関連していたと思われる背景があります。 1542年から、伊達家の父子対決を核として、南奥羽の全域で繰り広げられた「天文の乱」。 長尾景虎が挙兵した時期は、この大乱が終結した時期と見事に重なっているのです。 天文17年(1548年)9月、かつて南奥羽の帝王として君臨した伊達稙宗は、将軍・足利義輝の仲裁により息子・伊達晴宗と和睦。稙宗は隠居し、晴宗が伊達家の家督を継ぐことになりました。事実上、稙宗の降伏です。 この乱が起きた主な原因のひとつは、伊達家から越後上杉家に養子を入れる問題をめぐる父子の対立でした。そのため、対立は越後でも発生しており、長尾晴景は養子縁組反対派、つまり晴宗に味方していました。 稙宗の敗北が確定したことにより、長尾晴景は勝者の側に立ったということになります。 そして、長尾景虎が挙兵して春日山城に迫ったのは、それからわずか1ヶ月後のことだったのです。


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長尾家の政変は「天文の乱」の復讐戦だったのか

長尾景虎の挙兵と「天文の乱」の関連性は、時間軸だけではありません。 長尾景虎の家督継承の立役者として知られる武将の名前を見てみましょう。 筆頭は、揚北衆の中条景資(父・中条藤資の名前で語られることも多い武将です)。彼は伊達家の縁戚で、養子縁組を推進した中心人物でもあります。しかしその結果、揚北衆の本庄家など、養子縁組反対派の武将たちと対立。この武力衝突は、当初は伊達稙宗の援軍を得た中条景資が優勢でした。 しかし伊達稙宗が息子の伊達晴宗と戦闘状態に陥ると、援軍を得られなくなった中条景資は孤立。本拠地の鳥坂城は、長尾晴景方の武将たちに攻められて落城しました。その後の中条家は、景資が隠居するという条件で、かろうじて存続を許されている状態だったのです。 こうして凋落した中条家ですが、景資は何らかのパイプを使って栖吉長尾家に接近し、景虎を支持する勢力の多数派工作に奔走します。その功績が評価され、上杉謙信の政権下では揚北衆の筆頭格として重用されました。 次の主要メンバーは、北信濃の豪族・高梨政頼です。彼は中条景資の正室の父親であり、景資の父・中条藤資の正室の甥でもあります。つまり、中条家と密接に結びついた同盟者でした。 後の上杉謙信は、この高梨政頼の恩にもしっかり報いています。彼の重なる信濃出兵は、村上義清や小笠原長時の所領を奪還するためというよりも、高梨政頼の所領を守るため(それと同時に越後も守るため)に行われたと見るのが自然です。 景虎が黒田処断についての報告を送った小川長資も、景虎擁立を強く支持した武将の一人です。彼は揚北衆の名門・本庄家の出身で、中条・伊達連合軍の協力を得て本庄家を乗っ取った人物。つまり中条景資とは運命共同体のような関係でした。 景虎が家督を継承すると、その承認を得て引き続き本庄家の実権を握り続けますが、甥の本庄繁長に殺害されました。 そして家督継承劇で特に重要な人物は、守護・上杉定実です。彼は長尾晴景のお陰で復権した経緯があり、表向きは晴景と良好な関係を保っていました。 しかし越後上杉家は、伊達家との養子縁組を晴景に妨げられたために、断絶の危機に瀕していました。当然、上杉定実は晴景に対して複雑な感情を抱いていたはずです。 その証拠に、黒田秀忠の乱や兄弟対決の仲裁で、上杉定実は一環して景虎に有利な判断を下しています。 さらに上杉定実の重臣、大熊朝秀が景虎の擁立に奔走し、初期の景虎政権の中心メンバーになったという事実もあります。 「景虎派」の主だったメンバーは、他には長尾景信、本庄実乃、直江景綱、山吉行盛などがいますが、彼らは長尾景虎が養子に入った「栖吉長尾家」とその勢力圏の武将たちで、いわば身内です。 つまり、長尾景虎の家督相続を強く支持した武将たちは、身内を除けば、「天文の乱」で敗者の側に立った勢力ばかりだったのです。 景虎が後年の出奔時の書状で「兄は奥郡の武将たちから侮られていた。彼らは何やら遺恨があると言って出仕もせず、好き勝手な行動をしていた」と書いていることも、家督相続劇と揚北衆同士の対立(中条家と黒川家の対立など)に関連性があったことを匂わせます。 また、景虎が黒田秀忠を粛清した直後に小川長資に宛てて出した書状からは、粛清の経緯について、守護が本庄家にわざわざ自筆の手紙を書いて説明しなければいけない事情があったことが分かります。つまり、かつて伊達家との養子縁組をめぐって中条家と戦った本庄家と、黒田秀忠との間に何らかの関係があったことが推測できます。 これらの状況と、天文の乱の終結と同時に景虎が挙兵している事実を重ね合わせると、長尾家の家督交代劇が「天文の乱の敗者たちによる復讐戦」という側面も持っていた可能性は、極めて高いと言えるのではないでしょうか。 景虎の次兄・長尾景康もこの動きに同調しており、それを察知した黒田秀忠によって殺害されたことも考えられます。しかし景康の行動については、裏付けとなる史料は見つかっていません。


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栖吉長尾家と上田長尾家の対立

この「敗者たちの反撃」に立ち向かい、晴景政権を支えようとした武将は、黒田秀忠以外にはいなかったのでしょうか? 実は、景虎勢が春日山城に進撃したのと同じ時期に、景虎派と軍事衝突を起こしていた勢力があります。 南魚沼地方を拠点とする実力者、上田長尾家です。 上田長尾家の長尾政景は、長尾晴景の母と血筋が近い(晴景の母も、政景の祖母も、上条上杉家の出身)こともあり、「晴景派」と見なされることもあります。 家督交代直後の本庄実乃の書状で「そっちはそっちで健闘してくれ」と発破をかけられた上野家成(節黒城主)は、政景に近い武将、下平吉長(千手城主)との間で領地争いを起こしていました。 節黒城も千手城も、十日町盆地の北西に位置しています。この辺りは、上田長尾家の勢力圏と、栖吉長尾家(景虎)の勢力圏の境界だったと見られます。 上野家成と下平吉長の領地争いは、1553年ごろに私闘として始まり、1556年に景虎政権を2分する抗争に発展した(そして景虎が出奔する原因になった)と言われることが多いですが、本庄実乃の書状から、1548年末の家督継承よりも前から対立があったことが分かります。 さらに、「君の働きについてはちゃんと(景虎に)伝えるから、安心してほしい」という言葉からは、それはただの私闘ではなく、栖吉長尾家の勢力圏を守るための闘いだったことが推測できます。


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長尾政景は晴景派だったのか

それでは長尾政景は、長尾晴景を支え、景虎への政権交代を防ごうとしたのでしょうか?または、黒田秀忠と連携して景虎と戦っていたのでしょうか? 対立した時期の重なりや対立構造から見れば、それも十分に考えられます。 特に、黒田秀忠の勢力基盤が妻有荘だった場合は、同じ魚沼地方の領主として、長尾政景と密接な関係があった(黒田秀忠は上田長尾家との従属関係も維持したまま府内長尾家の重臣になった等)可能性もあります。 しかし、黒田秀忠が危機に陥った際、長尾政景はせいぜい小競り合いを仕掛けている程度で、彼を積極的に助けようとした形跡は見られません。 長尾政景の景虎に対する抵抗は、むしろ景虎が家督を継承し、黒田秀忠が誅殺された後から活発化することになるのです。 上田長尾家は、政景の父・長尾房長の代から、状況に応じて長尾為景と結んだり、対立したりを繰り返してきました。長尾晴景とは良好な関係を保ってきましたが、従属意識はなかったと見られます。 つまり、景虎と政景の対立はあくまで「栖吉長尾家 VS 上田長尾家」という構図が主軸でした。 そしてこの対立は、上杉謙信の死後に、長尾政景の実子・上杉景勝が栖吉長尾家を滅亡させるまで続くことになるのです。


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上杉謙信の「義」と「寛容の精神」の原点とは

上田長尾家の動きはともあれ、上杉謙信の戦国武将としての第一歩は、とても美化し難い出来事に彩られていることが分かってきました。 しかし上杉謙信が父・長尾為景や他の多くの「戦国の梟雄」たちと違う点は、彼がこうした行為について開き直れる武将ではなく、むしろ気に病むタイプだったということです。 彼が異常なほど「義」や「筋目」を追求し、仏法の守護神としての戦いに自らの存在意義を見出した背景には、決して正統ではない方法で国主となった原点に対する負い目もあったのではないでしょうか。 上杉謙信はその生涯で、多くの武将に何度も裏切られていますが、そのほとんどを許しました。その異常なほどの寛容さは、18歳の長尾景虎が黒田秀忠とその一族に対して行った粛清とは対極的なものだったのです。


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まとめ

  • 長尾景虎の家督継承に伴い、謎の事件がいくつも起きていた
  • 江戸時代前期には、長尾晴景と景虎の「兄弟対決」が語り継がれていた
  • 景虎自身は、「長尾家の名誉を傷つける事件」があったことを示唆している
  • 「黒田秀忠の乱」は定説とは違い、景虎の家督継承と同時期の出来事だった
  • 黒田秀忠は長尾家恩顧の武将
  • 長尾晴景は、黒田秀忠の討伐を渋ったと推測できる
  • 実は黒田秀忠は、晴景を守ろうとした忠義の臣だった?
  • 2度目の謀反は発生しておらず、ただ黒田一族の粛清があっただけ
  • 景虎は、黒田討伐を口実にクーデターを実行したのか?
  • それとも、兄弟対決は黒田の処遇をめぐるものであり、晴景は黒田の助命と引き換えに隠居したのか?
  • 一方で長尾家の家督交代劇は、「天文の乱」の敗者たちによる復讐戦という側面もあった
  • それと並行して、栖吉長尾家と上田長尾家の対立も深まっていた
  • 上田長尾家の長尾政景は、長尾晴景VS景虎という兄弟対決とは別の次元で、景虎との戦いを繰り広げた
  • 上杉謙信による「義」と「寛容」の追求は、血塗られた家督相続劇の反動だった?