- 書状でたどる戦国時代 -

「寛容さ」によって越後を統一した長尾景虎(上杉謙信)

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の22ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)が4年間で達成した越後統一。それは粘り強い外交と妥協の産物でした。「毘沙門天の化身」は、その後も敵に対する寛容さをたびたび見せることになります。


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越後統一の達成

華々しい戦いはなかったとはいえ、関東遠征を行い、一時的ではあれ上杉憲政の復権を実現させたことは、長尾景虎にとって大きな意味がありました。 長尾家は主家・越後上杉家から国主の座を奪った簒奪者ではなく、逆に「上杉家の守護者」だとアピールすることができたためです。 天文22年(1553年)4月には、後奈良天皇から「越後と周辺国に害を及ぼす敵を退治した」ことを称えられ、これからも朝廷に尽くすようにとの綸旨を得ています。 8月には、信濃に出陣して武田晴信の勢力を後退させました。この頃、景虎に反抗的だった揚北衆の本庄繁長も臣従しています。 これをもって、長尾景虎による「越後統一」はほぼ達成されたと考えてもいいのではないでしょうか。


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なぜ長尾景虎は越後の国主になれたのか

天文17年(1548年)に長尾家の家督を継承した長尾景虎は、4年間をかけて越後を統一しました。 一方、天文21年(1552年)に家督を継承した織田信長は、永禄8年(1565年)の尾張統一まで13年かかっています。それは、清須城の織田彦五郎や弟の織田信勝(信行)、岩倉城の織田信賢、今川義元、犬山城の織田信清などとの合戦の連続であり、信長はそれらの敵のほとんどを滅ぼしました。 長尾景虎の場合、軍記物を除き、本人の出陣が確認できる戦闘が天文22年(1553年)の「第一次川中島の戦い」までほとんどありません。 感状が残っている「勝ち戦」としては村松城の攻城戦と波多岐の戦いがありますが、どちらも小規模な局地戦だったと見られます。 そして織田信長とは対照的に、敵対した勢力(上田長尾家、本庄家、黒河家など)と緩い条件で和睦し、彼らの独立性を残したままで従属させています。 それは、武力による統一に失敗した父・長尾為景を反面教師とした政策だったとも思えます。 一方で彼は、アオソ交易の保護・統制や、朝廷・幕府との関係づくりについては、為景の政策を引き継ぎ、さらに発展させました。 そして、朝廷・幕府・上杉家という権威を後ろ盾にすることで、プライドの高い国人たちを何とか従わせました。 長尾景虎は武力ではなく、外交と経済力によって越後統一を短期間で成し遂げたのです。 「毘沙門天の化身」が率いる華々しい戦いは、越後統一後の天文22年(1553年)から始まります。