長尾景虎の越後統一(1) -上田長尾家と栖吉長尾家-

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の1ページ目です。 長尾景虎にとって、越後国内で最大の脅威だった長尾政景。その対立の背景には、上田長尾家と栖吉長尾家(古志長尾家)の複雑な関係がありました。

上田長尾家とは

上田長尾家は、越後守護代・長尾家の分家でありながら、半ば独立した勢力として越後で強い影響力を持ってきた一族です。 その独立性は、上田長尾家が越後守護の被官ではなく、関東管領の被官として南魚沼地方を支配してきたことに由来しています。 中世の土地の所有権は非常に複雑で、関東管領・山内上杉家が越後にも荘園を持ち(妻有庄)、上田長尾家に管理を任せていたのです。 1509年(永正6年)、関東管領・上杉顕定(うえすぎ あきさだ 1454年~1510年)は、この妻有庄をめぐって越後守護代の長尾為景(ながお ためかげ 1489年~1537年?)と対立。為景が越後守護を殺害したことに対する報復を大義名分として、越後に侵攻しました(永正の乱)。 このとき上田長尾家の当主だった長尾房長(ながお ふさなが 1494年?~1552年)は、関東管領の被官として上杉顕定に従いました。長尾房長の居城、坂戸城は、顕定による越後侵攻の前線基地になっています。 しかし翌年、長尾為景が反攻を開始し、形勢が悪くなった顕定が関東への撤退を始めると、長尾房長は突然為景側に寝返り、顕定の退路を遮断します。 そのため、坂戸城の北で起きた「長森原の戦い」で、上杉顕定は包囲され、討ち取られてしまいました。 その後、長尾房長は為景に従いますが、1530年に上条定憲や揚北衆が反為景の兵を挙げると、房長も再び為景と対立します。 しかし、1536年の「三分一原の戦い」の後に上条定憲が死亡した後、為景の息子・長尾晴景と和解。晴景の妹が房長の息子・長尾政景の正室になることが決まりました(実際に結婚したのは後年という説もあります)。 このように、上田長尾家(長尾房長・長尾政景)は、府内長尾家(長尾為景・長尾晴景)と対立と和解を繰り返してきましたが、上田長尾家の去就によって越後全体の情勢が左右されるほど、大きな勢力を持った一族でもありました。

上田長尾家のライバル、栖吉長尾家

越後には、府内長尾家と上田長尾家に加えて、大きな勢力を持つ長尾一族がもう一つありました。 栖吉城(長岡市)を本拠にする「栖吉長尾家」です。古志郡(長岡市、小千谷市、見附市のそれぞれ一部)などを支配したため「古志長尾家」とも呼ばれます。 こちらも「永正の乱」の途中で上杉顕定方から長尾為景方に転じましたが、その後は為景との同盟関係を維持し続けたため、府内長尾家との関係は良好でした。長尾晴景は、その関係をさらに強化するため、弟の景虎を栖吉長尾家の養子に入れることにします。 長尾景虎は1543年ごろから、栖吉長尾家の家臣、本庄実乃を後見人として、栃尾城で軍学などを学びました。 ライバルの栖吉長尾家が府内長尾家と結びついたことで、危機感を持った上田長尾家は、次第に態度を硬化させていきます。

波多岐荘のにらみ合い

その影響が早速現れたのが、越後の経済を支えるアオソ(青苧。麻織物の原料)の生産地、魚沼郡波多岐荘(十日町市周辺)です。 この辺りは上田長尾家の勢力圏の西側にあたり、その被官である下平家が支配していました。しかし、長尾為景(晴景と景虎の父)が長尾房長(政景の父)と戦った際、為景が勝利して一部の土地を奪い取り、「興徳寺領」「善勝寺領」「満用寺領」という3つの荘園が府内長尾家の支配下に入っていました。その荘園を管理していたのは、府内長尾家の重臣・黒田秀忠です。 長尾政景は、長尾晴景や黒田秀忠に対し、この荘園を下平家に返還するよう強く求めます。府内長尾家の武将たちは反発し、一時は軍事衝突が発生しそうな事態にもなりました。 しかし天文17年(1548年)の春、府内長尾家は上田長尾家と「無為(和睦または不可侵条約)」を締結し、府内長尾家と上田長尾家の勢力圏の境界をはっきり定めることになりました。 波多岐荘については、上田長尾家の主張がほぼ全面的に認められ、「売却」という形で荘園を返還することが決まりました。 6月24日、長尾晴景から千手城主・下平吉長に対して発した証書が残っています。

興徳寺・善勝寺・満用寺の所領を売り渡す。 以前の戦いで、父・為景がこの所領を獲得した際、いつか下平家に返却する約束をしていた。 その約束通り、今後は下平家が知行(所有)するように。 上越市史 上杉氏文書集「長尾晴景判物」より意訳

この「無為(和睦)」を主導したのは、黒田秀忠だったと思われます。黒田秀忠は、多数派工作を進める景虎支持勢力(栖吉長尾家+天文の乱の負け組)への警戒を強めており、上田長尾家とは事を構えたくなかった(むしろ味方につけたかった)のかもしれません。

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