長尾景虎の越後統一(2)-家督継承直後の政略-
「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の2ページ目です。 長尾家の家督を継承した景虎(後の上杉謙信)がまず取りかかったのは、中越の大勢力、平子家の懐柔でした。
均衡を崩した「景虎の家督継承」
しかし、それから間もなくして「黒田秀忠の乱(実際には長尾景虎の乱?)」が発生。府内長尾家は大混乱に陥ります。 12月、黒田秀忠は長尾景虎に降伏。その直後(大晦日)に晴景も隠居し、景虎が当主となりました。 この際、政景が晴景の側に立って戦ったという話もありますが、越後守護・上杉定実の仲裁により、長尾晴景と景虎の対立があまりにも早く解決されたため、政景はほとんど介入することができませんでした。 景虎が府内長尾家の家督を継承したことで、府内長尾家と栖吉長尾家が一体化。さらに景虎は上杉定実も味方にしていたため、越後上杉家も事実上一体化します。 そのため、本庄実乃を筆頭とする栖吉長尾家の家臣団と、大熊朝秀を筆頭とする越後上杉家の家臣団が、越後の実権を握ることになりました。 景虎はまだ満18歳で、栃尾城で本庄実乃から兵法を学んだとはいえ、政治のことはほとんど知らなかったはずです。これまで兵法の師だった本庄実乃が、今度は政治を手取り足取り教えることになったと思われます。 越後守護代・府内長尾家は、栖吉長尾家に乗っ取られたということになります。
平子家の取り込み
景虎の新政権は、越後の主だった勢力を外交によって取り込むことにしました。 最初のターゲットは、越後上杉家の重臣、平子家です。薭生城(ひうじょう、小千谷市)を拠点に、魚沼郡(魚沼市)から西古志郡(出雲崎町周辺)にかけて強い勢力を持っていました。 当主の平子房長(たいらこ ふさまさ)は、景虎の家督継承によって生じた混乱をチャンスと捉え、勢力をさらに拡大しようとしていました。 これに対し景虎も、平子房長の要求にできるだけ応じることで、懐柔することにします。 4月19日、景虎が平子房長に送った書状です。
宇賀地についての手紙を拝読した。 その土地の帰属については、特にこちらから介入する必要はないだろう。これまで通りの形で知行してくれ。 上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳
「宇賀地」は魚沼郡の北部、現在の魚沼市小出周辺です。アオソ交易の一大拠点であり、さまざまな豪族の所領が複雑に入り混じっていました。 景虎は平子房長が要求するまま、平子家による所有を認めましたが、これは後になって大きな問題を引き起こします。 平子房長は他にも、小木ノ城(出雲崎市)の松本河内守という武将に与えられていた西古志郡の山俣地区についても「昔は平子家のものだった」と主張し、返還を要求していました。 景虎は、この問題についても平子房長の言い分を認めることにします。しかし、松本河内守は景虎の命令に強く反発しました。 松本河内守に、景虎が11月4日に送った書状です。
平子孫太郎に山俣を引き渡すよう命じていたが、まだ実行していないようだな。 色々と不服ばかり言っていては、いつまでも解決しないぞ。できるだけ早く引き渡すように。 平子家は、わが長尾家にとっては父・為景以来の盟友だ。この関係の重要性は、他の理屈とは比べ物にならないことを分かってくれ。 上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳
さらに11月6日、景虎は平子房長に以下の書状を送りました。
以前から西古志郡の山俣の所領、三拾貫分の返還を要求されていたが、このたび許可することになった。 この土地はあなたが知行されるとよろしい。 御屋形様(上杉定実)からの安堵状も、後ほど発給されるだろう。 上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳
この時点で、領土争いなどの裁定を下すのは形式上は越後守護の上杉定実ということになっています。 しかし景虎のこの書状では、自分が判断を下し、あと付けで守護の安堵状が発行されることを強調しています。 このように、景虎は「土地について有利な裁定をしてあげる」ということを材料に、有力な豪族を味方にしようとしていたのです。 一方、所領を奪われる側の松本家は、古くからこの土地を支配した一族ではなく、室町時代に信州の松本から入ってきて、何らかの戦功への報酬として長尾家から小木ノ城を与えられていました。 松本河内守という人物については情報が乏しいですが、後の上杉謙信の旗本、松本景繁の先代(父?)と見られています。平子家のような上杉家の重臣クラスではなく、長尾家の被官のような立場だったのでしょう。 そのため景虎は、松本に強く命じれば従うだろう、と思ったのかもしれません。 しかし武士にとって、所領とは命よりも(そして主君よりも)大切なもの。それに「オレの友人関係を守るために土地を譲れ」という命令はあまりにも理不尽です。松本河内守は、景虎の命令に抗い続けました。 ところで、こうした「依怙贔屓による不正な利益供与」は、後年の上杉謙信が非常に嫌った行為です。後の出奔騒ぎの原因のひとつも、こうした醜い政治判断に関わることから逃れるためだったと見られます。 そのため、景虎が松本河内守に送った書状は、本人の意志で書いたものではなく、本庄実乃などの宿老の「輔弼」によって書かされた可能性があります。 以下は11月8日、本庄実乃、大熊朝秀、小林宗吉の「三奉行」が連盟で松本河内守に送った書状です。
平子殿の本領である山俣について、殿からお手紙がきているだろう? 殿のご意思に従って、速やかに所領を引き渡すこと。 この所領返還の実現は非常に重要なので、われわれ三奉行からも通達する。 上越市史 上杉氏文書集「本庄実乃等三名連署状」より意訳
「長尾景虎政権」は、どうしても平子家に貸しを作りたかったようです。 次のページ長尾景虎の越後統一(3)-「長尾政景の乱」のはじまり-