長尾景虎の越後統一(3) -「長尾政景の乱」のはじまり-

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の3ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)と長尾政景の武力衝突が始まったのは、アオソ交易の要衝「宇賀地」をめぐる平子家と上田長尾家の領土争いがきっかけでした。

宇賀地の抗争

こうした景虎の態度を見て、平子房長は他の所領についても強い主張をするようになりました。 アオソ交易の要衝「宇賀地」は、長尾為景の時代にたびたび争奪戦が繰り広げられた場所で、その中には、かつて平子家が所有していたものの、その後上田長尾家の被官の所有となった土地もあります。 平子房長は、4月に景虎から与えられた安堵状を根拠に、その土地を返還するよう上田長尾家に迫りました。 以下の書状は、その平子房長の要求に対し、上田長尾家の家老・金子尚綱が11月14日に送った返信です。

宇賀地の所有権についてのご主張を読ませていただきました。 しかしあなたの訴えは、去年の春に上田長尾家と府内長尾家の間で交わした不可侵条約に反しております。あのとき、お互いの勢力圏の境界は確定したはずです。 上田長尾家の当主は、近々府内に出張する予定もあり、両家の誼を深めようとしております。 それにも関わらず、そちらから協定を破るような一方的な要求をしてくるとは、いったいどういうことでしょうか?とても承服しかねます。 どんな手段で引き渡しを迫られたとしても、われわれは決して屈することはありません。 上越市史 上杉氏文書集「金子尚綱書状」より意訳

「長尾政景の乱」の勃発

この平子家の圧力により、上田長尾家では景虎政権に対する不信感がますます高まりました。 天文18年(1549年)の年末から天文19年(1550年)にかけて、府内長尾家と上田長尾家の不可侵条約は破棄され、戦闘状態に陥ります。「長尾政景の乱」の始まりです。 開戦のきっかけを作ったのは、宇佐美定満(うさみ さだみつ 1489年?~1564年?)でした。現在、「上杉謙信家臣団」の中でも、特に良く知られている武将です。 宇佐美定満は、この直前まで上田長尾家の陣営に属していました。この定満が離反し、府内長尾家に鞍替えしたことで、宇賀地で戦端が開かれたと見られます。 この「長尾政景の乱」では、宇佐美定満の存在が極めて重要になってきます。そこで、まずは定満がどんな武将だったのかを見ていきましょう。 次のページ長尾景虎の越後統一(4)-長尾政景の乱の主役・宇佐美定満-