- 書状でたどる戦国時代 -

「長尾政景の乱」のキーパーソン・宇佐美定満

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の4ページ目です。 「長尾政景の乱」が始まった背景には、宇佐美定満の存在があります。軍記物や歴史小説で「上杉謙信の名軍師・宇佐美定行」として描かれてきた宇佐美定満は、史実ではどんな武将だったのでしょうか?


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軍記物の「宇佐美定行」

宇佐美定満は、軍記物語や歴史小説では「軍師・宇佐美定行」として描かれ、野尻湖(野尻池)で長尾政景と無理心中したことで知られます。しかし、それらのエピソードのほとんどは、「宇佐美定行」の子孫を自称する紀州藩お抱えの軍学者・宇佐美定祐が書いたとされる「北越軍記」から派生しています。 「北越軍記」は地名や人名、事実関係の誤りが多く確認されており、宇佐美定満(定行)の上杉謙信の関東出兵や武田信玄との戦いにおける活躍、長尾政景の暗殺については、モデルになった多少の事実はあったかもしれませんが、ほとんどは江戸時代の創作だと考えていいでしょう。 宇佐美定満とは、史実ではどのような武将だったのでしょうか?


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宇佐美定満と琵琶島城

一般的には、宇佐美定満の居城は琵琶島城(柏崎市)とされています。しかしそう考えると、彼が書いた書状の内容に齟齬をきたします。 また、戦国時代の琵琶島城は、宇佐美家ではなく、上杉家の支流である琵琶嶋家が支配していたという記録があります。長尾為景の時代は琵琶嶋正藤、上杉謙信の時代は琵琶島政藤(琵琶嶋弥七郎/枇杷島弥七郎)という人物が上杉家の一門として登場し、琵琶嶋善次郎の代に御館の乱で上杉景虎に味方し、滅亡しています。 少なくとも定満の代には、宇佐美家は琵琶島城を領有していなかったと思われるのです。


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越後宇佐美家とは

そもそも宇佐美家は、鎌倉時代初期の「曽我兄弟の敵討ち」で討たれた工藤祐経の弟、宇佐美祐茂を初代とする名家です。 南北朝時代の天授4年/永和4年(1378年)、上杉房方が越後守護に任じられた際、土着の豪族たちににらみをきかせるため、宇佐美祐益が関東地方から兵を率いて越後に入り、琵琶島を拠点としたといいます。 つまり宇佐美家は、越後上杉氏の権威を支えてきた譜代の重臣でした。当初は琵琶島城を居城としていましたが、後に小野城(上越市柿崎区)に移ったと見られます。 永正10年(1513年)に越後守護・上杉定実が長尾為景と戦った際、宇佐美房忠は魚沼郡などの国人に対し、守護に味方するよう呼びかけました。 この「宇佐美駿河守」の計略に注意するように指示した、為景の書状が残っています。ただしこの書状の年代がもっと後であり、計略を行ったのは宇佐美定満ではないかという説もあります。 いずれにせよ、上杉定実と宇佐美房忠の挙兵は失敗し、守護方は敗北。永正11年(西暦1514年)に小野城が落城し、上杉定実は為景に幽閉されてしまいます。宇佐美房忠は岩手城に逃れて抵抗を続けますが、まもなく討ち死にしました(房忠は小野城で戦死しており、岩手城で抵抗したのは残党だという説もあります)。 このとき、「弥七郎息(宇佐美房忠の息子)」が城から落ち延びたことが記録されています。


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「宇佐美四郎右衛門」の活躍

それから21年後の天文4年(1535年)、長尾為景と戦っていた上条定憲の書状に「宇佐美四郎右衛門」という名前が登場します。 この頃、長尾為景の被官である福王寺孝重が籠もる下倉山城を、上条定憲の同盟者・長尾房長(上田長尾家の当主)が攻め立てていました。 一方で長尾為景は、宇佐美四郎右衛門が籠もる城を攻撃したものの、撃退されています。この宇佐美四郎右衛門の活躍により、為景は劣勢になり、春日山城の近くまで追いつめられていくことになります。 宇佐美四郎右衛門は、翌年の大決戦「三分一原の戦い」にも参戦し、一時は為景の本陣近くまで迫ったといいます。 この宇佐美四郎右衛門と宇佐美定満は、同一人物だという説と、別人だという説があります。 仮に別人だったとしても、宇佐美房忠が敗死した後、定満は上田長尾家に身を寄せ、37年近くにわたって上田長尾家のために働き続けたと見られます。