- 書状でたどる戦国時代 -

宇佐美定満の離反と「宇賀地の戦い」

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の5ページ目です。 宇佐美定満の離反をきっかけに始まった「宇賀地の戦い」。緒戦は長尾景虎(後の上杉謙信)に味方する府内勢が、長尾政景の上田勢を押していました。


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宇佐美定満が離反した理由

天文20年(1551年)1月中旬。宇佐美定満は上田長尾家から離反し、景虎陣営に鞍替えすることを表明しました。 多大な恩義があり、長年仕え続けてきた上田長尾家を、定満はなぜ見限ったのでしょうか? それがはっきりと分かる史料は確認できていませんが、推測するための材料はいくつかあります。 宇佐美定満は、宇賀地の領主の一人、多功小三郎(肥後守)と一緒に離反しているのです。 多功小三郎の居城・俎板平城(真名板平城/まないたびらじょう/根小屋城)の麓には「うさん(宇駿)屋敷」という地名があります。これは「宇佐美駿河守定満」が住んでいたことに由来すると思われます。 後の本庄実乃の書状で「宇駿要害」と呼ばれている城も、俎板平城のことである可能性が高いです。 また、多功小三郎の戦死後は、その遺族を定満が保護しています。その後しばらく、俎板平城は定満と息子の宇佐美平八郎が城主をつとめたと見られますが、天正6年(1578年)の「御館の乱」の時点では多功家が再び城主になっています。 つまり、宇佐美家は多功家の当主が戦死した後、後継者が成人するまで城を預かっていたと考えられるのです。 これらのことから、宇佐美定満は多功家と運命共同体のような関係があったことが分かります。多功小三郎の家老のような立場だったのかもしれません。 多功小三郎は長尾為景に属していた時期もありますが、その後上田長尾家に鞍替えしています。 例えば、平子房長が所領回復のために多功小三郎を引き抜き、それに釣られる形で宇佐美定満も上田長尾家から離反した、という流れが考えられます。


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宇賀地の戦い

ともあれ、宇佐美定満と多功小三郎の離反をきっかけに、宇賀地で激しい戦闘が始まりました。 宇佐美定満たち府内勢は、平子房長の支援を受けながら、宇賀地における上田勢(長尾政景側)の拠点、板木城(魚沼市板木)に襲いかかりました。 この戦いについては、1月15日、長尾政景が発智長芳に対して送った書状が残っています

よくぞ拠点を守りきった。そなたの奮闘は忘れぬぞ。

金子尚綱が、板木城を包囲していた敵が撤退したので、今晩中にもそちらに援軍に行くと言っている。今後の戦略については、金子とよく話し合ってくれ。詳細は使者が口頭で伝える。

上越市史 上杉氏文書集「長尾政景書状」より意訳

板木城の城主、発智長芳は、政景が派遣した家老・金子尚綱に城の守りを任せ、前線の拠点で府内勢を迎撃。最初の攻勢は何とかしのぎきったようです。 政景は翌日の1月16日にも、援軍に派遣したと思われる穴沢長勝という武将に激励の書状を送っています。

今回、宇佐美定満の奴が裏切りやがったが、そなたたちはしっかり奮闘してくれるので、感謝しているぞ。今こそ忠義を尽くしてくれ。作戦の詳細は栗林経重から伝える。

上越市史 上杉氏文書集「長尾政景書状」より意訳

このように、当初は優勢のように見えた上田勢。 しかしそれからわずか2日後の1月18日、政景が発智長芳に送った書状は、内容が一変します。

今回、そなたの老母や妻、息子たちが敵に捕らえられたのは非常に残念だ。わたしも悔しくてたまらないし、このままで許すつもりもない。

何としても、先祖代々の忠節を守り、引き続き奮闘してもらいたい。詳しくは使者の石井が伝える

上越市史 上杉氏文書集「長尾政景書状」より意訳

どうやら発智長芳の居城・板木城は、発智長芳が前線の拠点で奮闘し、留守を預かっていた金子尚綱がその援軍に向かったすきに落とされてしまったようです。 母や妻子を府内勢に連れ去られ、人質に取られてしまった発智長芳を、長尾政景は懸命に引き留めようとしています。 金子尚綱は、板木城を包囲していた敵が撤退したので出撃しても大丈夫だと判断したようですが、それは宇佐美定満による計略だったのでしょうか?