- 書状でたどる戦国時代 -

「宇賀地の戦い」の敗北と「波多岐の戦い」の勝利

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の6ページ目です。 「宇賀地の戦い」は、長尾政景から長尾景虎(後の上杉謙信)に鞍替えした宇佐美定満たちの敗退で終わりました。一方、別の戦線で行われた「波多岐の戦い」は景虎側が勝利しています。


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府内勢の敗北と景虎の死守命令

ところで、宇賀地で勃発した上田長尾家との戦いで、長尾景虎はどのように動いたのでしょうか? 景虎が、自ら兵を率いて加勢に駆けつけた形跡は見られません。その代わり、栃尾城に駐屯させていた庄田定賢の部隊を宇賀地に派遣しています。 2月21日、宇賀地戦線の指揮を取る庄田定賢に対して景虎が送った書状です。

真板倉城(俎板平城)への加勢、ご苦労である。

陣労も重なっているだろうが、しっかり在城してくれているので感じ入っている。さらに防備を固めるように。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

庄田定賢が入った俎板平城は、宇佐美定満と一緒に離反した多功小三郎の城です。1月に攻略していたはずの板木城よりもずっと北西に位置しており、戦線が大幅に後退していることが分かります。 実は、多功小三郎はそれまでの戦いで討ち死にしています。どうやら、府内勢はいったんは板木城を占拠し、発智長芳の家族を連れ去ることに成功したものの、その後の合戦では敗北し、壊滅的な被害を受けたようなのです。 攻勢に転じた上田勢は、多功家の所領の多くを占拠。余勢をかって、古志郡の一部にも攻め入っています。 景虎は庄田定賢に対し、せめて宇賀地の重要拠点、俎板平城だけは守り切るようにと命じていたのです。


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波多岐の戦い

府内勢と上田勢が激突したのは宇賀地だけではありません。 長尾為景の代からの係争地で、晴景が上田長尾家に返還したばかりの波多岐荘でも、対立が再燃していました。 所領の返還を決めたのは黒田秀忠だったと見られます。その黒田秀忠を「君側の奸」と見なしていた景虎派の武将たちからすれば、秀忠の行為は府内長尾家への反逆行為であり、撤回すべきということになります。 それを主張した代表格が、節黒城主の上野家成です。節黒城は波多岐にあり、下平吉長の居城、千手城からも至近距離です。下平吉長に売り渡された「興徳寺領」「善勝寺領」「満用寺領」についても、所有権を主張する何らかの理由があったと思われます。 そこで上野家成は、宇賀地で府内勢と上田勢の戦端が開かれたことをきっかけに、それらの所領の占拠に踏み切りました。 宇賀地の戦況が気になる政景も、それを見過ごすわけにはいきません。政景は波多岐に所領を持つ被官たちに、下平吉長への支援を命じました。 この「波多岐の戦い」では、どちらが勝利したのでしょうか。 2月24日、上野家成への援軍にかけつけた中条玄蕃允(十日町盆地の東にあった大井田城の城主)に対し、長尾景虎が出した感状が残っています。

21日に上田衆(政景派)がそちらを攻撃したが、そなたは見事に撃退し、多くの敵を討ち取った。その功を褒めてつかわす。今後も期待しておるぞ。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎感状」より意訳

景虎は3月13日にも、中条玄蕃允に2つ目の感状を出しています。

上田衆が上野家成を攻めた際、見事に勝利したのは、そなたの功績も大きい。褒めてつかわす。引き続き忠節を励むように。

そなたの所領についても、しっかり守ってやるから安心するがよい。

追伸 繰り返しになるが、荘園内のそなたの本領は必ず安堵する。そのためにも、今後もさらに奮闘してほしい。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎感状」より意訳

この戦いについて、政景からの感状は確認できていません。 中条玄蕃允など、波多岐の景虎派武将たちの奮闘により、政景の攻勢がくじかれたことが分かります。