- 書状でたどる戦国時代 -

長い和睦交渉の始まり

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の7ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)と長尾政景の戦いは一勝一敗。しかし、どちらも局地戦にすぎません。大規模な決戦に至る前に、和睦交渉が始まりました。


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和睦交渉

「宇賀地の戦い」では上田勢が勝利し、「波多岐の戦い」では府内勢が勝利しましたが、どちらも被官同士の合戦です。 ここで長尾景虎が主力を率いて魚沼郡に攻め込めば、長尾政景との決戦になる可能性がありましたが、景虎は動きませんでした。 一方、長尾政景としては、憎いのは裏切り者の宇佐美定満と多功小三郎であり、長尾景虎ではありません。多功小三郎を討ちとり、その所領の大半を占拠したことで、政景の目的はある程度達成されていました。 府内政権を倒すことまでは考えていなかった政景は、景虎に和睦を申し入れます。 一方の景虎も、上田長尾家を滅ぼすことまでは考えていませんでした。そこで、政景がはっきりと従属の態度を示せば、和睦に応じることにします。 しかし上田長尾家としては、府内長尾家への完全な臣従は避けたいところです。両家の和睦交渉は、条件の折り合いがつかず、1年以上にわたってだらだらと続くことになります。


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景虎の動きが消極的だった理由は?

長尾景虎はなぜ、上田長尾家との戦いに消極的で、和睦にも応じることにしたのでしょうか? 実はこの頃、「長尾政景の乱」とは別に、景虎にとって極めて重大な出来事が2つ起きていました。 ひとつは、越後守護・上杉定実の死去。 もうひとつは、将軍・足利義輝(足利義藤)から「白傘袋と毛氈鞍覆の使用免許」を与えられたことです。 どちらも天文19年(1550年)の2月の出来事で、タイミングが重なっていることから、一般的には「上杉定実が死去して越後守護がいなくなり、代わりに長尾景虎が幕府から事実上の守護として認められた」というようにセットで語られます。 しかし、「白傘袋と毛氈鞍覆」の本当の意味や、このときの足利義輝の状況、時系列などをよく見てみると、必ずしもそうではなく、この2つは関連はしているものの、基本的には別々の出来事と捉えるほうがよさそうです。 まずは、「上杉定実の死去」について考えてみましょう。