- 書状でたどる戦国時代 -

越後上杉家の断絶

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の8ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)が家督を相続してから1年後、名目上の主君だった上杉定実が死去し、越後上杉家は断絶します。この危機に直面した景虎は、父・長尾為景と同じ手法で乗り越えようとしました。


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長尾景虎が守護・上杉定実を暗殺した?

越後守護・上杉定実が死去したのは、長尾景虎が家督を相続してから1年余りが経った天文19年(1550年)2月26日のことです。 伊達家との養子縁組が天文の乱でつぶれていたため、後継者がいない越後上杉家は断絶しました。 結果から見ると、長尾景虎が越後の国主になったのは上杉定実の死がきっかけです。古代ローマの格言「クイ・ボーノ?(cui bono?/誰の利益になるのか?)」の観点から推理すれば、「長尾景虎は、上杉定実を暗殺して越後を乗っ取ったのか?」という疑問が湧いてもおかしくありません。 しかし戦国時代に一国の支配権を継承するのは、ゲームとは違い、それほど単純なことではありませんでした。 室町幕府が弱体化した戦国時代も、家格の序列は健在でした。その傾向は畿内よりも地方の方が強く、国人の多くは源頼朝の時代に活躍した御家人の末裔であることを誇りに思っていました。プライドが高い彼らを従えるためには、それなりの正当性を証明する必要がありました。 長尾家が越後を統治する正当性は、守護・越後上杉家の代行者(守護代)であることでした。つまり越後上杉家が断絶したら、国人たちは長尾家に従う必要はなくなるのです。 長尾為景は、守護を殺害し、傀儡を立て、その傀儡さえも幽閉するなどの「下剋上」を試みました。それは一時的には成功したものの、長尾家の権力を強めようとすると一斉に反発をくらい、泥沼の内乱に引きずり込まれていきました。 為景の跡を継いだ長尾晴景は、父が否定した守護の権威を復活させることで、何とか内乱を収束させました。 長尾景虎も、守護を殺すことで父・為景と同じような道を歩むことは避けたかったはず。 上杉定実は一貫して景虎の味方であり、国人たちに号令する際に定実の名前を使うことはかなり有効だったので、暗殺する動機はなかったと思われます。


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「国主不在の危機」に対する景虎の秘策

いずれにしても、景虎が家督を継いだ段階で上杉定実は高齢かつ後継者がいない状態であり、越後上杉家の断絶は目前に迫っていました。 なぜ養子を入れなかったのか、という疑問はありますが、伊達家との養子縁組計画が「天文の乱」のきっかけを作った前例があり、その二の舞を避けたかったのかもしれません。 担ぐべき越後国主がいなくなってしまう、という危機に備えて、景虎は、上杉定実の存命中から、養子縁組とは別の策を練っていました。 幕府と密接な関係を作り、将軍を後ろ盾にすることにしたのです。それは、父・長尾為景の政策を受け継いだものでした。 「守護よりも上位の権威である将軍の権威を使えば、守護がいなくても国を統治できる」というこの考え方は、長尾為景のオリジナルではありません。これは、守護代から守護への脱皮をいち早く成功させた、越前の朝倉家が編み出した方法でした。 そこでいったん、長尾家にとって「下剋上の師匠」である朝倉家が、どのように越前の国主となったのかを見てみましょう。