- 書状でたどる戦国時代 -

「幕府公認の下剋上」を達成した朝倉家

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の9ページ目です。 長尾為景と長尾景虎(後の上杉謙信)の外交政策は、「2人の朝倉孝景」が行った幕府公認の下剋上がモデルになっていました。


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「将軍公認の下剋上」を行った朝倉孝景(英林孝景)

朝倉家といえば、最後の当主・朝倉義景(1533年~1573年)をイメージする人が多いかもしれません。戦国時代は、主に織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代を中心に語られることが多いためです。 しかし織田信長や豊臣秀吉は、戦国武将としてはきわめて例外的な存在です。ほとんどの戦国大名が目指していたのは「天下統一」ではなく、領国支配の安定化でした。 そうした観点から見ると、「信長以前」の100年間においては、朝倉家は最も成功した戦国大名のひとつです。 その繁栄をもたらした中心人物は、7代当主・朝倉孝景(1428年~1481年)と10代当主・朝倉孝景(1493年~1548年)。同姓同名で混乱するので、7代当主は「英林孝景」、10代当主は「宗淳孝景」と呼んで区別します。 英林孝景は応仁の乱における最重要人物の一人。西軍の主力として活躍しましたが、途中で東軍に寝返り、応仁の乱が東軍優位で終わる原因を作りました。 越前の守護代だった英林孝景は、東軍に寝返る際に将軍・足利義政と細川勝元から「越前守護の権限を行使していい」と約束されていたといいます。こうして、越前では「将軍公認の下剋上」が実現しました。


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「越前国主」の座をめぐる朝倉家と斯波家の暗闘

もっとも、将軍のお墨付きだけで越前のすべての国人を従えることができたわけではありません。英林孝景に越前を追放されたかつての守護、斯波義敏・義寛親子の影響力も健在だったためです。 斯波義寛の介入を防ぐため、英林孝景の跡を継いだ8代・朝倉氏景は、斯波一族の一人(斯波義敏と対立していた斯波義廉の息子、斯波義俊と伝えられていますが異説あり)を名目上の越前国主に立てました。 斯波義寛はそれでも諦めず、長享元年(1487年)、「越前守護職を返して欲しい」と幕府に訴えます。しかし朝倉家の武力を頼りにしていた将軍・足利義尚は義寛の訴えを却下し、9代・朝倉貞景の越前支配を引き続き認めました。 さらに斯波義寛は、次の将軍・足利義材に対しても同じ訴えを起こします。足利義材はそれをいったん認め、一時は朝倉家の討伐が決まりますが、勝てそうではなかったので討伐は中止になりました。 その後の畿内情勢に応じて、足利義材(義稙)と朝倉貞景の関係はたびたび変化していますが、ともあれ朝倉家は軍事力を背景に将軍家に影響を及ぼし、越前の国主としての地位を固めていきました。 朝倉貞景は、永正3年(1506年)の「九頭竜川の戦い」などで一向一揆に勝利し、北方の脅威も取り除いています。


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上杉謙信が理想にした?朝倉孝景(宗淳孝景)の外交戦略

永正9年(1512年)に家督を継いだ10代・朝倉孝景(宗淳孝景)は、戦闘の指揮を一族(朝倉宗滴、朝倉景紀、朝倉景高など)に任せたことを除けば、「朝倉家の上杉謙信」ともいえる功績を残した人物です。 宗淳孝景は、家督継承から4年後の永正13年(1516年)、将軍・足利義稙から「白傘袋」と「毛氈鞍覆」を使用することを認められました。この特権の意味については後述します。 その後朝倉家の軍勢は、武田元信(若狭守護)、土岐頼武(美濃守護)、六角定頼(南近江守護)など、助けを求めてきた周辺国の守護を支援するための外征を重ね、将軍・足利義晴を助けるための上洛も行いました。 これらの軍事行動は、朝倉家の領国を増やすことにはつながりませんでした。その代わりに朝倉家は、将軍との関係をますます深め、「義の守護者」としての名声を獲得しています。 周辺国の秩序を回復したことは、越前支配の安定化にもつながりました。朝倉家の本拠・一乗谷は、戦乱で荒廃した京に代わる文化の中心地となり、「北の京」と呼ばれるほど繁栄したのです。 上杉謙信の外交や外征は、宗淳孝景の事蹟をモデルにしていたのではないかとも思えます。