長尾景虎の越後統一(10)-白傘袋と毛氈鞍覆-
「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の10ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)が越後国主と認められた証とされる「白傘袋と毛氈鞍覆の使用免許」。しかし、他の事例を見てみると、必ずしもそうではないことが分かります。
「白傘袋と毛氈鞍覆」の本当の意味とは?
上杉謙信の父・長尾為景にとっても、守護代の家格でありながら、幕府公認の国主になった朝倉家は理想像だったようです。為景は宗淳孝景と同様にに幕府に働きかけ、「白傘袋と毛氈鞍覆の使用免許」というステータスを獲得しました。 この「白傘袋」と「毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」とは、どんなステータスだったのでしょうか? 「白傘袋」は、衣笠(絹を張った長柄の傘)を入れる白い袋のこと。 「毛氈鞍覆」は、引馬(行列の先頭の馬)の鞍に被せる毛氈(もうせん、獣毛を固めて作ったフェルトのような敷物)の覆いです。 どちらも、将軍邸に向かう際などの儀式的な大名行列で使われますが、これらを使用できる武将は非常に限られていました。この特権が朝倉孝景(宗淳孝景)や長尾為景、長尾景虎に与えられたことから、「白傘袋と毛氈鞍覆の使用免許」は守護・国主待遇を意味すると言われることも少なくありません。 しかし、実際にこの特権を与えられた武将は、朝倉孝景(宗淳孝景)、長尾為景、長尾景虎の他にも、浦上村宗(播磨守護代)、池田久宗(摂津国人)、三宅国村(摂津国人)、芥川孫十郎(摂津国人)、陶隆房(周防守護代)、杉重矩(豊前守護代)、内藤興盛(長門守護代)、飯田興秀(大内家被官)、桑折貞長(伊達家被官)、松浦隆信(肥前国人)がいます。 国人や家臣クラスに与えられた例も多いことから、必ずしも国主として認定するステータスではなかったことが分かります。 室町時代の故実書では、白傘袋と毛氈鞍覆の使用は将軍や公家に加えて「大名と随分の衆」に限定されると書かれています。つまり、守護以外の武将にとって、これは将軍から「随分の衆(頼りになる有力者)」と認められたことを意味するステータスだったのです。 朝倉家や長尾家は「俺は将軍様にも頼りにされている有力武将だぞ。だから俺の言うことを聞け」と言うために自分のためにこのステータスを買い、細川家や大内家、伊達家は重臣(有力国人)に恩を売るために買い与えたのでしょう。 松浦隆信はもともとは大内家の家臣ですが、平戸のポルトガル交易で稼いだ資金を使って自ら買い取ったと思われます。
献金の資金源となった「アオソ交易」
「白傘袋と毛氈鞍覆」のステータスを長尾為景が買い取ることができたのも、松浦隆信と同様、交易で稼いだ資金を元手に、幕府に多額の献金をしたためでした。 当時の越後は、米どころではありませんでしたが、麻織物の高級ブランド「越後縮」の原料となるアオソ(青苧。カラムシ)の一大産地でした。長尾家はアオソの交易拠点だった直江津と柏崎を確保し、青苧座の商人たちを支配することで、莫大な利益を上げていました。 アオソ交易を円滑にするためには、主な売り場である畿内での根回しが欠かせません。長尾為景が朝廷や幕府にたびたび献金をした背景にも、「守護を上回る権威が欲しい」という目的に加えて、アオソ交易が関係していた可能性があります。 「越後上杉家がもうすぐ断絶する」という危機に直面した長尾景虎も、幕府を代わりの後ろ盾にするため、多額の献金を行いました。 次のページ長尾景虎の越後統一(11)将軍・足利義輝からのメッセージ