- 書状でたどる戦国時代 -

蘆名盛氏の陰謀

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の12ページ目です。 少しでも早く上洛し、将軍に加勢したい長尾景虎(後の上杉謙信)。しかし今度は北方から、新たな脅威が迫りつつありました。


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古志郡への出兵

上杉定実の死による正当性のゆらぎ、そして後ろ盾にしようと考えていた将軍からの救援要請。 長尾政景との戦いの最中にこれらの事態が発生し、景虎は政景との和睦交渉を始めました。 しかし、和睦が正式に成立するまでは油断ができません。特に宇賀地の大半は上田勢が占拠したままで、府内勢はいくつかの拠点を確保しているにすぎませんでした。 魚沼川と破間川の合流地点を見下ろす要衝・下倉山城(魚沼市下倉)も、そういった拠点のひとつです。 9月23日、下倉山城を守る福王寺重綱たちに景虎が出した書状です。

拠点の守備、ご苦労である。そなたたちがそこを守ってくれているお陰で、こちらの安全も保たれておる。その働きには満足しているぞ。

本来、これからの戦略についてわたしから直接指示するべきであるが、今は名代の吉江茂高と庄田定賢と話し合い、しっかり備えを固めてくれ。

わたしは、この古志郡の状況が油断がならないので、こちらで年を越すことにした。

そちらに変わったことが起きたら、素早く報告してくれ。また連絡する。

追伸

くれぐれも、そちらで悪いことが起きないように、城に集まった武将たちとよく協力して守りを固めてくれ。頼んだぞ。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

どうやら、景虎はこのとき魚沼郡の北にある古志郡に出兵していたようです。 古志郡は、上田長尾家が一時的に攻め込んだことがあるとはいえ、宇賀地や波多岐などの主戦場は魚沼郡だったはずです。 古志郡には栖吉長尾家の所領があり、景虎の本拠地だった栃尾城もあります。景虎にとってはホームグラウンドです。 しかもこの時の越後には、上田長尾家を上回る強敵はいなかったはず。それなのに、越後の北東方面に、景虎が自ら出陣するほど警戒した相手がいたというのです。 それはいったい、誰だったのでしょうか?


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蘆名盛氏が越後侵略を企んでいた?

この謎について、いくつかの状況証拠から推定できる人物がいます。 会津地方を治める大名、蘆名盛氏(あしな もりうじ 1521年~1580年)です。 蘆名盛氏は蘆名家中興の祖と呼ばれ、伊達政宗が登場する以前は南奥羽で最大の勢力を築いたことで知られます。景虎よりも9歳年上で、このときの景虎よりもはるかに多くの戦闘を経験していました。 蘆名盛氏は、越後の菅名荘(五泉市村松周辺。会津地方から越後への入り口)に対して大きな関心を持っていました。実際、後の景虎の出奔騒ぎと、上杉謙信死後の御館の乱では、越後の混乱に乗じて侵攻を試みています。 このときも、介入を試みたとしてもおかしくありません。 とはいえ、直接的な軍事侵攻を行ったわけではなく、「菅名荘の領主・菅名家に、蘆名家家臣の子息を養子に入れる」というような介入だったでしょう。「入嗣(養子縁組)」は戦国時代の(特に奥羽の大名たちの)侵略の常套手段でした。 後に蘆名盛氏と上杉謙信は「互いの領内の国人の間では養子縁組をさせない」という盟約を交わしていました。そのことからも、それ以前に国境を超えた養子縁組が度々トラブルの原因になっていたことが分かります。 盛氏と景虎の間には、「天文の乱」から引きずっている対立構造もありました。蘆名盛氏は、当初は伊達稙宗に味方していましたが、途中で伊達晴宗側に鞍替えしていました。一方、景虎の家督相続を支持した武将は、中条景資をはじめ、伊達稙宗側の勢力が多かったのです。 1550年の時点で、景虎が政景以上に警戒しなければならない相手となると、蘆名盛氏と、その同盟者だった伊達晴宗以外には考えられません(武田晴信はこの9月の「砥石崩れ」で村上義清に大敗しており、まだ越後にとっての脅威ではありませんでした)。 蘆名盛氏が狙っていた菅名荘は、蒲原郡でも古志郡に特に近い場所です。 「盛氏の侵略行為を防ぐため」とは別の理由もあったでしょうが、景虎は主力を率いて古志郡に駐屯したまま冬をこすことになりました。 地元なので「現地調達(略奪)」もできず、駐留費用を工面する必要もありました。 11月末から12月上旬にかけて、景虎政権の閣僚(奉行衆)である本庄実乃、大熊朝秀、小林宗吉は、臨時の税(公田段銭)を徴収しています。 春になれば、蘆名盛氏・長尾政景連合軍と、長尾景虎との間で大乱が始まる可能性さえ出てきました。