- 書状でたどる戦国時代 -

蘆名盛氏の方針転換と村松城落城

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の13ページ目です。 介入には全力で立ち向かう姿勢を見せた長尾景虎(後の上杉謙信)。それを見た蘆名盛氏は、素早く戦略を転換しました。


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蘆名盛氏の「損切り」

そんな中、蘆名盛氏から長尾景虎に対して一通の書状が送られます。 以下は、その書状に対して、12月28日に景虎が送った返信です。

しばらく越後と会津の交流が途絶えていましたが、内心はあなたにお尋ねしたいことがたくさんありました。

そんな中で送っていただいたお手紙の内容には、非常に満足しております。

上田と古志郡で、わたしに対して不審な行動を取る者たちがいたので出動しましたが、大事には至っていないのでご安心ください。もし異変があれば、ご連絡いたします。

ご提案された内容については、春になったらじっくり話し合いましょう。こちらの考えについての詳細は、改めてお伝えいたします。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

蘆名盛氏は、しばらく断絶状態にあった景虎に対して何を伝え、何を提案したのでしょうか? それを推測する材料が4つあります。 1)このやりとりから1ヶ月以内に菅名荘で戦闘が起き、景虎が村松城を落城させていること。 2)この菅名荘の戦闘を含め、長尾景虎による越後統一戦には、蘆名盛氏は出兵しなかったこと。 3)蘆名盛氏がこの頃から、田村隆顕(三春城主)との戦いを本格化させたこと。 4)景虎がそれまで蘆名家に対して抱いていた不信感が、盛氏の手紙によって払拭したこと。 この時の蘆名盛氏の主要ターゲットは、あくまで会津の東にある仙道六郡(福島県中通り)。打倒すべき対象は、蘆名家と同じく「天文の乱」に乗じて勢力を拡大した三春の田村家でした。 西の越後については混乱に乗じて勢力を広げ、安全地帯を作りたかっただけで、本格的な戦闘状態に陥ることは避けたかったはずです。 つまり、蘆名盛氏から景虎へのメッセージは、 「蘆名家は越後の内乱には一切介入せず、むしろ景虎による越後統一を支持することを約束する。誰が村松城主になっても構わない。自分はこれから仙道方面に進出したいと考えており、越後については安全さえ確保できればいい。そのため今後、不可侵条約の締結についても話し合いたい」 というような内容だったのではないでしょうか? 蘆名盛氏は、臨機応変に態度を変えるしたたかな武将。「天文の乱」でも、伊達稙宗との関係をいち早く断ち切って、伊達晴宗が勝利する流れを作ったという前歴がありました。 そして1556年の「景虎出奔」で越後で再び混乱した際も、武田晴信や越中の一向一揆と手を組んで菅名荘に出兵。しかし景虎が戻ってきて反撃に転じると、素早く兵を引き上げ、再び不可侵条約を締結しています。 投資で目論見が外れて「損切り」をする場合、最も重要なのは決断の迅速さと冷徹さだと言われます。「蘆名家中興の祖」と言われる名政治家・蘆名盛氏は、それを得意とする戦国大名でした。


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村松城の攻略

天文20年(1551年)1月。 景虎勢は、蘆名盛氏が不介入を決めたことで孤立した村松城に総攻撃をかけました。 この時の村松城主が誰だったのかは明らかではありませんが、菅名荘の領主、菅名家で後継者争いが起きていたのであれば、蘆名家の家臣の縁戚を後継者として押す勢力が実権を握っていたのかもしれません。 村松城の攻城戦は1ヶ月も持たなかったようで、1月26日には、戦功を挙げた小越平左衛門尉に対して、景虎から以下の感状が送られています。

こたびの村松要害攻略において、敵将・上屋を討ち取ったのは見事な戦功である。褒めてつかわす。今後もさらなる奮戦を期待する。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎感状」より意訳

こうして、越後北部の脅威は取り除かれました。揚北衆同士の対立は続いているものの、府内政権を脅かすほどの問題ではありません。 景虎は、上田長尾家への対策に全力を挙げられるようになったのです。 なお、この年(天文20年)の2月10日には、隠居していた兄・長尾晴景が死去しています